煙草と虫歯とベルフェゴール

胤田一成

第1話

「非常に珍しい生え方をしていますね。これは当院では少し手に余る。ほらここ、第三大臼歯の茎の部分が大動脈を圧迫しているんです」

 森岡歯科の院長は歯のレントゲン写真を前にして、そんなことを言った。

 私は歯茎の鈍痛を看護師に手渡された氷嚢で誤魔化しながら、エックス線により露わにされた自分の口内をじっと見詰めた。「見るに堪えない歯並びだ」と思いつつも、私は自身のレントゲン写真から目を離せないでいた。私は私の敵を知るために必死であった。

「第三大臼歯といっても、とどのつまり、ただの親知らずでしょう。虫歯になったせいか酷く痛んで仕様がないんです。第一これじゃ、ろくろく物も食べられないし、ろくすっぽ寝れやしない」

 私は歯茎の鈍痛に耐えながら、少し誇張して、そう言い張った。具体的に述べると、前者は本当であったが、後者は嘘であった。心療内科から処方される睡眠導入剤のおかげで夜はぐっすりと惰眠を貪ることができた。それにしても、物を食べられないのは苦痛である。私はもう一ト月の間、ほとんどヨーグルトかポタージュしか口にしていない。

「だから見て下さい。歯茎の根っこの部分がね、動脈に触れてしまっているんですよ。今、抜こうものなら出血多量のリスクを負いますよ。虫歯を治すにしても無理でしょうな。どうしてもメスの入る手術になる」

 私は氷嚢を強く頬に当てながら食い下がったが、医師の答えはいつも通りのノーである。

「以前にも申し上げたように、然るべき機材と措置の整った、口腔外科で手術を施してもらうことですな。私からはそれ以上のことは薦められません」

 堂々巡りの末に行き着く先は決まり切っていた。最後の方は医者特融の無知な者を嘲る、あの嫌らしい傾向すら感じ採れた。

「口腔外科…ですか」

「ええ。それで万事解決ですな。ニ、三日ほどの入院で済むでしょう」

 足元を見られていると、そう感じた。私は「結構です」と断ると席を立った。私には歯一本のために手術を受けたり、三日間も入院するような余裕はなかった。

「大変なことになりますよ」

 背中で院長の警告を受け止めながら、看護師に氷嚢を押し返すと、私は森岡歯科を後にした。雑居ビルの二階から降り立ち、外に出ると雹がふっていた。

「今日はとことんついてない」

 私はそう呟くとカーキ色のコートのポケットから煙草を一本取り出し、数年来愛用しているジッポーで火を灯した。

 十二月の白い息の中に紫煙が交ざり、私のため息はどこかで見た怪獣映画の放つ光線のように、長く真っ直ぐと伸びていった。

 私が第三大臼歯の部位に大きな「洞」が空いているのを発見したのは、今からだいたい一ト月前まで遡る。

 いつも通り、詰まらないアルバイトの仕事を終え、母親が用意して置いてくれた冷めた晩飯を食べていると、左奥歯に強烈な痛みを感じた。私は咄嗟に咀嚼を止め、口の中の残飯を吐き出すと、そこには血と膿が混じったものがあった。

 慌てた私は急いで洗面所に駆け込み、薄汚れた鏡の前に立つと、咥内に指を突っ込み、大きく口を開いてみせた。やがて、私は左頬の内側に小さな穴が空いていることに気が付いた。

 穴の中は真っ黒で、どうやら中に生えた親知らずが虫歯に犯されてしまったらしい。痛みに堪えながらも、患部の歯茎を指で押してみると、小さな穴から湧くように膿汁が溢れ出し、口いっぱいに嫌な臭いが満ちるとともに、じくじくとした脈打つような鈍痛が左頬を焼き始めた。

 初めこそ小さな穴であったが、今では縦に裂かれた大きな「洞」のようなものにまで、第三大臼歯は成長しつつある。またそれに伴い、痛みの波も比例して大きくなっていった。痛みに堪えかね、とうとう降参するようにして足を運んだのが、先ほども述べた森岡歯科であった。しかし、そこでも私を受け入れてはくれなかった。箴言されたのは「手術」と「入院」であり、金とは縁遠い生活を送る私にとって、それはあまりにも辛い宣告であった。

 おそらく、平身低頭して頼めば、両親は私に医療費を捻出してくれるであろう。しかし、それは私のプライドが許さなかった。二十代後半にも差し掛かって、歯を一本抜くのに五十を過ぎた両親に頼るということはあまりに情けないことに感じられたし、何より明日には三十代を迎える大の大人が、いまだに定職にも就かず、アルバイトでその日暮らしを送り、親の脛をかじり続けなければ生きていけぬという現実を直視するにはあまりに悔しく、居た堪れなくもあった。

 家に帰れば食事も風呂も用意されていて、清潔な服をいつでも纏えるということは必ずしもありがたいことではない。世話というものは、されればされるほど、己の至らなさを如実に物語るものである。しかも、私のような精神疾患に罹った者であれば、それはもう耐え難いほどの精神的苦痛となることもある。

 私は左奥歯に走る鈍痛と、それに伴う苛立ちを煙草で誤魔化しながら、「このことだけはあの人達に頼らないでいよう」と心に決めた。振り始めた雹はまだまだ止む気配がなかった。


「五十五回、五十六回、五十七回、五十八回、五十九回…」

 上半身を露わに晒したまま腕立て伏せを繰り返す。玉となった汗が床にポタリポタリと雫になって滴る毎に、私は束の間の安静を保っていられるようになっていた。

 森岡歯科を追い出された後、私はこの忌々しい第三大臼歯の痛みから逃れる方法を可能な限り試してみたが、この方法に勝るものは見つからなかった。私が選択した唯一の方策とは、「痛みを痛みで相殺させる」という自己破壊めいたものであった。私は第三大臼歯の鈍痛を誤魔化すために、筋肉の繊維をズタズタになるまで引き裂くという自身の肉を傷つける方策を採ったのだ。幸いにも、私には金の代わりに時間だけがあまりある程に残されていた。私は両親が仕事で不在になる時間を目一杯使って自身の肉体を痛めつけた。私の身体は四六時中、筋肉痛に悩まされたが、同じように左頬を焼く鈍痛を意識させられるよりは幾分かは楽であった。

 私はその日のノルマである筋肉トレーニングを終えると、煙草に火をつけ、安値で買った姿見用のスタンドミラーの前に立つと様々な角度から己の肉体を眺めてみた。

 男らしく隆起した上腕二頭筋と大胸筋。水を弾くかのようにピンと緊張した僧帽筋。腹直筋は六つに割れ、背面にあたる広背筋とともに大きく腰をくびらせている。大腿筋はなだらかな丘を描くようにして、下腿三頭筋へと続き、紡錘形を形作っていた。

「完璧だ」

 私はそう呟き、ほくそ笑むと、姿見の端に貼られたダヴィデ像の写真を一瞥し、汗ですっかり濡れそぼったズボンを脱ぐと、彼のダヴィデ像と同じ恰好をとってみた。腕に力を込めて肩口に指を添える。腰は心持ち捻らせ、爪先で立つようにして右足を上げた。しかし、これはしっくりとこなかった。おそらく、男根の大きさが合っていないのだろう。

 次には私は適当な椅子に腰掛けると、今度はロダンの考える人と同じような恰好―コの字に曲げられた右腕で頬杖を着き、そのまま肩を捻るようにして、左腿に肘を置いて座すあの知的なポーズ―をとってみたが、何故だかこれもしっくりこない。男根は隠してあるし、ポーズも問題ないはずである。今度は頭身の問題なのであろうか。できる限りの模倣は試みているはずである。しかし、私がとると同じ恰好でも、尊さや高尚さは消え失せ、どこか俗っぽく卑屈なものになってしまう。巨匠の彫刻だからこそなせる技なのであろうか。そのようなことを考えている時である。

「痛い」

 第三大臼歯の鈍痛がまたもや私を苦しめ始めたようだ。熱を帯びた歯茎を労わるように、私は頬の左側にそっと手を添えた。その日の疼痛はいくら時間が経っても治まりそうになかった。私の右手は左奥歯に空いた洞の痛みを誤魔化すための安定剤と化した煙草の方へと伸びていった。

 どこで道を踏み誤ったのか。

 過ぎ去った遺物を弄び、時には傷に指を突っ込み、ほじくり返して迄してでも、明らかにしなくてはならない事もある。

 私は第三大臼歯の痛みをやり過ごすために、肺にいっぱいの煙を吸い込むと、鼻から太い棒のような紫煙を吹いてみせた。

 やはり、前職での出来事が原因なのであろうか。私は居た堪れない気分になりながらも、懸命に過去を思い出そうと努めたが、それは徒に精神的疲労を伴うだけで、結局のところ無駄に終わった。

 では、私よりも金を選んだあの薄情な女の事どうであろうか。唯一愛した女に一方的に捨てられたという事実が心の病の原因であろうか。私は自分の脳にそれを尋ねてみたが、湧き出るのは怒りと悔しさばかりで、これも少し原因とは考えられなかった。

 畢竟、私をして精神衰弱に至らしめた原因は見当たらなかった。おそらく、過去のどこかで人生の機点が存在し、私はそれを踏み損なったことだけは確からしい。或いはそういったターニングピントのようなものを過ち続けた結果が今の私なのかもしれない。しかし、具体的にどこがそうであったかを正しく思い返すのは至難の業である。いずれにせよ、気がついたらここにいた、という他に言いようがないのである。

「鬱病は甘え」といわれているのを頻繁に耳にするが、その成否すら私には分からなかった。過去に原因を見出すことができるのなら、とうの昔にそれを払拭し、私を取り囲む周りの人間とともに足並み揃えて社会に貢献しているはずである。

 私の病原は一体どこに存在するのであろうか。必死になって探してみようとしたことも一度や二度ではない。しかし、その一切が徒労に終わり、医者は私に多量の薬を手渡す代わりに、私の自己探求の旅が失敗に終わったことを暗に示すだけであった。それでも私は自身の精神を立て直すために、懲りずに自己批判と探求を止められずにいる。そこには執着心に近いものがあった。

 私は一体どこで道を誤ったのであろうか。

 私が斯様なことを思索し、低回していると、第三大臼歯の痛みはますます増していった。私は煙草を置き、脱ぎ捨てた下着とズボンを履き直し、きつく紐を縛ると腕立て伏せを再開すべく、またもや床に伏せていった。


「治す気はあるのか」

 その日は偶然訪れた。終わりはいつだって唐突にやってくる。私達の気持ちなんてお構い無しにやってくる。

 普段なら、私が退屈なアルバイトの仕事を終える時間には食事を済まし、床に就いているはずの親父が玄関口で私のことを待ち構えていた。

 親父の口から酒の臭いがプンと鼻をついた。「相当飲んでいるな」と私は直感した。いつもは大人しい父親ではあるが、酒が入ると誰彼構わず他人に絡む癖を親父は持っていた。母は父の後ろでちょこんと正座していた。疲れた顔をしているところを見ると、相当長い時間、父の辛み酒に付き合わされたようであった。

「治す気はあるのか」

 父はまたもや同じ質問を投げ掛けてきた。私には何のことを言っているのか分からなかった。

「何のことを言っているのかわからないな。それってこの親知らずのこと。それともこの鬱病のこと」

 父は低く唸ると、「両方だ」と小さく答えた。私には第三大臼歯の鈍痛が皮肉にも与えた素晴らしい肉体があった。痛みに堪えているという事実が齎した奇妙な自信が、私にはあった。

「治す気ならあるよ」

「それならお前は何をしている。きちんとした食事もとらず、一日中馬鹿みたいに腕立て伏せやら腹筋やらを繰り返しながら、煙草ばかり吸って、ろくすっぽ前に進んでないではないか…。就職活動の一つでもしてみたらどうだ」

「俺は今…、療養中なんだよ。だから薬を飲んでいるんじゃないか」

 左奥歯に空いた洞が熱を帯びてきた。就職という言葉を耳にして、脳裏に前職での苦々しい記憶が激しく目滅していた。私は思わず左頬に手を添え、煙草を取り出し火を点けると、気分を落ち着かせるために、大きく呼吸した。その態度が私にとっての鬼門であったらしい。父は私の態度を見て逆上し始めた。私が彼らを侮蔑していると思ったらしい。その時の私の感情にそれが介在していたかどうかは今をもってしても分からない。父の声は震えていた。

「何だその態度は、馬鹿にするのも大概にしろ。これだから今の世代は―」

 記憶の明滅は止まらない。父親の憤慨する様を目の当たりにして、私は混乱に混乱を重ねていた。

 気が付いた時には口が勝手に言葉を発していた。母が立ち上がり父を懸命に宥めようとしているのを私は見た。私は決して親に対して口にしてはならないことを口走っていた。

「こんな風に育てたのはお前達じゃないか。俺達、子どもを育むのは大人の責任じゃないか。俺が弱くなったのはお前達、大人の責任だ。世代、世代と寄って集って馬鹿にしやがって。お前達、大人が全ての諸悪だ」

「この野郎っ」

 父は私に組み付いてきた。その力は意外と強く、私は思わず親父の腕を振り払い、殴り掛かってしまった。

 私の左拳が親父の頬を捉えた。力は抜いたつもりでも当たり所とタイミングが悪かった。親父は益々逆上し、今度は本気になって私に殴り掛かってきた。私は喧嘩をほとんどしたことがない。父親から敵意を向けられることも一度もなかった。親父の獣のような咆哮を聞いて、私は完全に気が惑っていた。その時である。

 親父の痛烈な拳が私の左頬を捉えた。私はあまりの痛みに眼がくらみ、思わず床に膝を着いたその刹那、たたみ掛ける様にして、親父は私の顎を思い切り蹴り上げた。

 痛烈な一撃に顎の骨が割れる音を聞くとともに、私は口から大量の血と一本の親知らずを鯨のごとく吹き出した。抜けた第三大臼歯が咥内の大動脈を傷つけたのだろう。私は無限に湧き出る膿と血の海に溺れながら、薄れゆく意識の中で、この家をでることを決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

煙草と虫歯とベルフェゴール 胤田一成 @gonchunagon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る