第71話 自分史上最高の笑顔で

「田部」


 俺が声をかけると同時に、「行橋ゆきはし先生! 田部君」と、メゾソプラノの声が聞こえてきた。


 俺と田部は同時に声がした方に顔を向ける。

 住宅街を抜け、香川さんが左手を俺たちに向かって振りながら、歩いて来るのが見える。


「お前、覚悟しろよ」


 香川さんに手を振り返しながら、田部に言う。「は?」。いぶかしむ声に、俺は顔を田部に向けた。


「いまからやることに失敗したら、俺は今晩やけ食いとやけ酒だ。明日の朝は、トイレに籠ること必至だから、お前、トイレを使いたければ近所のコンビニでも駅にでも行け」


「……は?」


 再び、意味が分からない、と言う風に眉根を寄せて言う田部の手首を掴み、俺は香川さんに近づいた。


「遅くなっちゃいました?」

 香川さんは右手をスリングで吊ったまま、にこりと笑う。


 土曜日の午前中ということもあり、彼女は私服だった。

 水色のキャミソールの上から、紺色のカーディガンを羽織り、髪の毛を下した姿はとても清楚なお嬢様に見える。

 2週間前に怪我をして、いまだにスリングを使っている以外は「いつもの香川さん」だ。


「香川さん」


 笑え、と俺は心の中で命じる。

 最高の笑顔。自分史上、これ以上ないぐらいの素敵な笑顔を作れ、と表情筋に命じる。


「はい」


 田部君、おはよー、と香川さんは俺の隣の田部に挨拶をしてから、顔を上げて首をかしげる。


 畜生。可愛い。俺は息を吸いこむ。なんとなく、剣道で蹲踞そんきょから立会いの時の気分に似ていた。


 息を吸い、気迫を発する代わりに、俺は香川さんに思いを伝えた。


「俺と、結婚を前提におつきあいしてください」

「……は?」


 何故か返事をしたのは田部だった。

 香川さんは俺の前で、きょとんとした表情のままで何も言わない。


「いま、俺とおつきあいをしてくださったあかつきには、もれなく田部が付いてきます」


 そう言って、ぐい、と掴んでいた田部の腕を引き寄せる。田部はたたらを踏んで俺の方に倒れ込み、「はぁ!?」と盛大に声を張った。


 そんな田部と、無言のままの香川さんの前で、俺は一気に言葉を吐き出した。


「香川さんのことは、恋人として妻として、最大限尊重させていただきますし、要望があればできうる限り夫として恋人としてかなえようとは思います。

 ただ、俺は今から田部を養子にするものですから、彼の学校行事や人生における節目などは、最重要事項として、参加するつもりなので、もしもそのあたりで香川さんが何か俺に希望を伝えたとしても、それについては譲歩していただきたい。それ以外のことであれば、世界中のどの女性よりも幸せにするよう、誠心誠意努力することを、ここに誓います」


 喋りながら、なんだかどんどん頓珍漢なことを言っている自覚はあった。


 俺は告白とプロポーズを一緒にしようとして、何故か最後は選手宣誓を香川さんにおこなっている。


「田部君、行橋先生の養子になったの?」


 香川さんは俺から目を反らし、田部に不思議そうに尋ねた。田部は慌てて首を横に振って何か話しだそうとするから、俺の方が先を制する。


「養子になるんです。これから」

「先生っ!」


 叱責するような田部の声は、だけど、香川さんの「これで安心ね」というほがらかな声に消される。


「こんなこと言うのはなんだけど、あのご両親の側にいるよりは、断然良いと思うわよ」


 香川さんは、『こんなこと言うのはなんだけど』と、前置きさえしておけば何を言っても許されるとでも思っているのか、そのあと田部の両親に対して辛辣な言葉をつらつらと口にする。


 困惑する田部は、そんな香川さんをしばらく見ていたが、不意に俺に視線を向けた。


「……で。これ、どうなってるんです?」

 そう促され、俺は、「ああ、そうだ」と呟いて咳払いをした。


「香川さん。あの、さっきの俺の申し出なんですけど」


 俺が声をかけると、香川さんは口を閉じ、それから困ったように眉をハの字に下げた。

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