第69話 俺は、このところずっと考えていた

◇◇◇◇


 2週間後。

 俺と田部は曇天の下、車にもたれて立っていた。


「違うやん。僕の生活費のことを言うてるんやん」

 ぼんやりと降り出しそうな空を見ていたのだが。


 珍しく語気の荒い田部の言葉に、驚いて俺は車から体を離した。


 反射的に隣に立つ田部を見ると、視線が合う。気まずそうに顔をそらされ、田部は車の後方に隠れるように移動した。


「冬服のことも……。考えてへんやろ」

 大分声を潜めるようにして田部はキッズ携帯に向かって話している。姿は消えても声は辛うじて聞こえていた。


 田部の通話相手は、父親だ。


 俺はひっそりと息を吐き、目の前の田部家を見た。

 初めて訪問した時と変わらず、錆びた門扉がそこにある。


『生活費のことなんですが……』

 田部と暮らし始めて3週間が経った頃、申し訳なさそうに田部が切りだしてきて、俺は目を瞬かせた。なんのことかわからなかったからだ。


『もうすぐしたら、父が口座に入金してくれるはずなので』

 そんなものいらないと首を振ると、田部はきっぱりと、『僕が生活しづらいですから』と答えた。


 田部は、食費や光熱費等を少し俺に渡したいようで、どうやら父親に連絡を取って催促をしているらしい。


 だが。

 父親は、のらりくらりとそれを躱し、かつ、中学校の冬服購入費すら渋る始末だ。


 多分だが。

 あっちに、女がいる。

 だから、田部に使う金が惜しいのだ。


 能勢のせさんと校長はこれらのことを見越しており、田部の給食費についてはひとり親家庭と同じ制度の申請をすでにしてくれた。おかげで無償だ。


 制服の件についても、田部にはまだ言っていないが、香川さんにお願いして、ボランティアセンターのリサイクル制服の手続きをしている。中古だが、無料だ。ほころび等がある場合はボランティアさんが丁寧に補修してくれているという。


 それよりも、と、能勢さんも田部と同じで、俺が負担している生活費を気にしていた。


 正直。

 田部の生活費なんて、どうとでもなる。


 そう食うわけではないし、休日にどこかに遊びに連れて行くわけでもない。俺としては、多少金がかかってもいいから、部活をさせたいのだが、本人が拒否をする。


 そんな目の前の『金』のことよりも。

 俺は、『今後の田部』のことを、最近ずっと考えている。


 高校生になる田部。大学生になる田部。社会人になる田部。


 普通の家庭に暮らしていれば、なんの疑問も持たずに思い描ける未来。


 そんな姿を想像し、気づけば深く重い吐息が口から漏れていた。


 あの。

 父親の元で、そんな『普通の暮らし』が出来るだろうか、と。


「お父さん、真剣に考えてくれてるか……っ?」

 絞り出すような田部の小声に、俺は顔を背ける。


 田部は、相変わらず夜にうなされるし、生活のことを気にして、当初ほどのんびりと俺の家で過ごさなくなってしまった。

 俺が外食に誘っても首を横に振るし、「休日どこかに行こう」と促しても、「自習室で勉強する」と勉強道具を持って出て行ってしまう。


 そんな彼が、夕方にちゃんと俺のアパートに戻ってくるかどうかが時折不安になって、俺は彼が帰宅する一時間前ぐらいから腹が痛くなる。


 そのまま、ふいっ、と姿を消してしまうんじゃないか。


 それほど。

 田部は俺から存在感を消そうとしているし、初めて出会った時のような脆さと儚さでもって、俺との境界を作ろうとしている。


「とにかく……。口座に、振り込んでよ」

 田部は吐き捨てるようにそう言うと、通話を切ったようだ。

 しばらく、車の後方でじっとしていたようだが、足音が近づいてきたので視線を向けると、俺の横に立っていた。


「近日中には、生活費がお支払できると思いますので」

 ぼそり、と声が聞こえて俺は視線を落とす。

 田部は、うつむくようにして立っていた。


 あの、フリーズの姿勢だ。

 顔を下に向けてはいるが、歯を食いしばって顎を張り、肩を怒らせて微動だにしない。


「なぁ、田部」

 俺は田部に向き直った。田部をしばらく見つめるが、全く動かない。


「ここのところ、俺は考えてたんだが」

 田部はまだ身じろぎひとつしない。そんな田部を眺め、それからどうしようかと迷ったものの。


 軋むような音が聞こえて、田部を凝視した。


 すぐに。

 田部の、歯ぎしりだと気づく。


 彼の手を見ると、拳を力いっぱい握りしめすぎて、肘から手首にかけての筋肉がぱんぱんに張っていた。


 そんな田部を見ていると、迷いもためらいも、なにもかもが吹っ飛び、言葉を吐きだす。


「田部、俺の養子に入らないか?」


 田部に、普通の暮らしをさせてやりたい。

 その思いは、徐々に強くなっていった。


 あの親ではダメだ。

 いつしかそう、見切りをつけている自分がいた。


 あの親はダメだ。

 そう思っている田部の諦めにも気づいていた。


 結婚もしておらず、子もおらず、ましてやつい最近まで休職していた俺が何を偉そうに、と嘲笑を浴びそうだが、結婚を何度も繰り返し、不安定な職に就き、子どもを放置しているあの男より、俺は余程田部のことを、田部の将来のことを考えている。

 だから。


「俺の養子になれば……」


 進学の心配も、生活の不安定さも、不自由な思いもしなくてすむんじゃないか。


 そう、思ったのだが。

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