第68話 闇が、守ってくれる

「香川……」 

 香川さん、そのから。


 尋ねようとした矢先、香川さんの右足が勢いよく、ぴんっと伸びた。

 香川さんは悲鳴を上げ、俺のシャツにしがみつく。


 違う、と直感した。


 足を延ばしたんじゃない。

 引っ張られたんだ、と。


 あの黒い手形が、香川さんの足を引っぱり、ベッド下に引きずり込もうとしている。


「香川さん!」

 俺は腕を彼女の背中とひざ裏に回し、一気に横抱きに持ち上げた。


 立ちこめるのは。


 ベッド下から突如吹き上がるのは。


 甘たるい、妙に粘着的でしびれそうな香りだ。


 俺はそれを振り払うように、彼女を抱え上げる。


 だが。

 体は一瞬ベッドから浮き上がったものの、香川さんの右足がまるで別の生き物のように下に向かって動き出そうとする。


 香川さんは悲鳴を上げて背中にしがみついてくる。俺は体勢を整えて強引にベッドから離れた。「痛い」と、彼女は叫んだけれど、躊躇った末に、「ごめんっ」と声をかけ、強引に彼女を抱えてカーテンから出た。


 ぬたり、と。


 甘い臭気が太く、糸引くようについてくる。


 病床脇のライトが作る橙色に染められた空間から飛び出し、俺は香川さんを横抱きにしてベッドから離れた。カーテンから出る。離れる。


 目の前でカーテンが揺れ動いた。

 穏やかで、緩やかな。守られていた、と思う空間から逃げ出し、俺と香川さんは荒い息で、薄闇の病室に体を紛れ込ませた。


 闇が。

 守ってくれる。

 逆にそんなことを思った。


 誘蛾灯のように、アレは、温もりや光に引き寄せられるのではないか。ふとそんな気さえした。


 凍えて冷えた闇の中にいれば。

 アレは、来ないのではないか。


 俺は香川さんを抱き上げたまま、カーテンを見る。

 揺れる布越しに。


 一瞬だけ。

 ワンピースを着た幼い子どもの影が映ったような気がしたが。

 次の瞬間には消えていた。


「……足首……」


 香川さんは、俺にしがみついたまま、右ひざを上げた。

 するりと病衣から伸びた脚は、やっぱり白くてなまめかしく、こんな状況でなければ彼女の脚に見惚れるのだろうけれど。


 俺は、彼女の足首を注視する。

 足首に。

 真っ赤な手痕が残っていたのだ。


「あの子……」

 香川さんが震える声で呟いた時、病室のスライド扉が開いた。


「うわっ」、「ひゃあっ」。

 俺と香川さんは同時に叫んだが、それは、入室してきた人も同様だった。


「ぎゃあ! ……ってか、なに⁉ 誰っ」


 ボストンバックを胸に掻き抱いて悲鳴を上げたのは、俺よりいくつか年が上に見える男性だった。

 パーマを緩くかけた茶髪の男性で、小柄でどちらかというと丸い体型のせいか、たぬきかあらいぐまを髣髴とさせる。


「お兄ちゃん!」

 俺の腕の中で香川さんが声を上げるから、目を丸くして彼を見た。たぬきとかあらいぐまとか連想してすんません。


「いや、だから奏良そら、それ、誰」


 香川さんのお兄さんは、大層訝しげに俺を見つめて指さす。


 ……そりゃそうだ。

 夜遅く妹の病室を訪ねてみれば、薄暗がりの中、見知らぬ男が妹を横抱きに、立っているのだから。


「……あの、初めまして。行橋ゆきはしと申します」


 向こうからすれば衝撃の初対面だったろうが、礼だけは尽くそう。

 俺は彼女を抱えたままお兄さんに向かって頭を下げた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る