第67話 香川さんが見ているもの

「先生……」 

 香川さんがビニール袋から手を離し、俺に向かって左手を伸ばしてきた時だ。


 影が。

 一気に大きくなった。


 いや。


 近づいてきたのだ。

 迫って来たのだ。

 すぐ側に。


 俺達の。

 直ぐ側に。



 来る、つもりなのだ。



 そう気づいて、俺は立ち上がる。

 カーテンに背を向け、香川さんを抱きしめた。ふわり、と鼻腔をかすめたのは、医療用アルコールの香りと、苦みのある医薬品の匂いだ。俺の両腕の間で、香川さんは小さな体をさらに縮めた。


 同時に。

 風の塊のようなものがカーテンにぶつかってくる。


 むせ返るような甘だるい匂いに、一瞬吐き気を覚えた。


 カーテンレールが軋み、腕の中で香川さんが小さく悲鳴を上げる。狂ったようにカーテンは舞い、顔を背けなければ息ができないほどに執拗に甘い風が吹き付けてきた。


「やめて!」


 香川さんが叫ぶ。

 途端に。

 風が、凪ぐ。


「……なんだ……?」

 俺は呟いた。


 凪ぐ、という表現はおかしいのかもしれない。なにしろ、室内に風が吹きすさぶことはありえないのだ。


 本来は。

 空気が吹き付けてくることなど、ありえない。


 俺は香川さんを抱きしめたまま、慎重に顔を起こす。

 周囲を見回した。相変わらず、濃い化学香料の匂いは室内にとどまっている。


 カーテンは、ゆったりとまだ揺れてはいるものの、徐々におさまりを見せていた。橙色の灯をうつす表面には、影などどこにも見当たらない。


 天井を見上げた。


 俺と、香川さんの陰は重なり、一つの塊のようになって映るだけで、他のなに者も、そこには描き出されていない。


 俺は詰めていた息を吐く。

 知らずに、肩に余計な力が入りすぎていたのかもしれない。鈍い凝りが背中に残り、俺はそっと腕の中の香川さんを見下ろした。


 香川さんは俺の腕の中で、じっとしている。


「香川さん……?」


 俺は声をかけた。

 香川さんは動かない。


「香川さん?」


 香川さんは、無言のまま、何かを見ている。


 ぞわり、と。

 その、微動だにしない黒瞳をみて背中に悪寒が走った。


 何を、見ている。


 香川さんは、今度は何を見ているのか。


 俺は香川さんを抱きしめたまま、彼女の体を見た。

 ベッドの上で、俺にしなだれかかるように上半身をもたれかけさせている。右手はスリングにつられているが、左手は俺の背中に回し、シャツを握っていた。


 下半身は、横座りになり、足を崩している。

 病衣の丈が膝までしかないのだろう。

 俺にもたれかかっているせいで、裾が乱れ、太ももが露わになっていた。


 香川さんは。

 だけど、そんなことも気にせず。

 自分の右足首を見ている。


 俺は、その視線を追う。


 香川さんの足は白い。

 頬と同じで、抜けるように白く、そして透明感がある。


 その、素足の。

 その、足首に。


 くっきりと。

 黒い、手形があった。

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