第39話 なにやってんだ、俺は

「田部……」


 思わず振り返り、居間に向かって声をかけたが、「帰って!」と襖の向こうから悲鳴に似た声が響いてきて、慌てて玄関に向かった。


「失礼しました」

 靴を二人して履き、玄関を出る時に香川さんが声をかけたが、田部は無視したようだ。


 玄関を出ると同時に、俺の携帯が鳴りだす。

 俺は後ろ手に扉を閉め、足早に門扉まで進む。

 数拍遅れて、がちり、と重い重い施錠音が聞こえた。


「はい。行橋ゆきはしです」


 スマホに応えながら、ちらりと香川さんに視線を送ると、彼女は名残惜しそうに、もうなんの変化もない玄関扉を見上げていた。


「芝原だ」

 若干疲労が滲む声がスマホを通じて伝わってきた。


「いま、保護者と繋がった。お母さんだ」

「それで、なんて?」


 俺は勢い込んで尋ねた。香川さんも内容に興味が湧いたのか、小走りに駈け寄ってくる。


「すぐ家に戻るから、職員を帰宅させろ、って」

「帰宅って……」


 俺は言葉が続かない。


 お前が……っ。

 お前が不在だから、こんなことになってるんだろうが‼


 怒鳴りつけたい衝動を、奥歯で噛んで必死に潰した。


「とにかく、家には入るな、と。もしも帰宅して職員が家にでもいたら、不法侵入で警察を呼ぶだのなんだの……」


 芝原先生はそう言うと、忌々しげに舌打ちをした。


「児相に通報したいよ、こっちが」

「通報しましょう!」


 俺はスマホに言葉をぶつけた。


「田部は多分、食事を満足に取ってません。この状態は明らかに虐待です」


 視界の隅に見えた香川さんが、ぶんぶんと首を縦に振っているお陰で、俺の言葉は勢い良く次々に飛び出す。


「養育されている様子もありませんし、そもそも、お父さんはどうしてるんですか。お母さんが帰宅している気配だって薄いですよ」

「だけど、証拠は無いだろ」


 ため息交じりの芝原先生の言葉に、俺は口を閉じる。ダメだ、これは。瞬間的に悟った。俺がいくらここで、児相に連絡しようと訴えても、学校サイドはする気がないということだろう。


「証拠って……」

 知らずに、俺は笑いながら言っていた。


「田部が倒れたのに、ですか。田部があんなに痩せているのに、ですか。田部が」

「行橋先生」


 俺の言葉を、ぶつりと芝原先生は断つ。


「帰って来い。とにかく、その家から出るんだ。入っちゃいけない」


 剣道では。

 相手が間合いに入り、竹刀の先同士で互いに中央を取り合っている状態を『縁が続く』という。間合いから出たり、相手がこちらから離れて体勢を立て直すときに、『縁が切れる』と表現をする。


 その。

 縁が切れた、状態だった。


 学校は、これ以上田部に関わらない、というところか。

 保護者には通報した。保護者も『帰宅する』と言っている。


 保護者は。

 教員は家に入るな。

 そう言っている、と。


「行橋先生」

 いつまでも黙ったままの俺の肘を、香川さんは軽く引いた。小声で俺の名前を呼ぶ彼女を見下ろす。


「いまは下がりましょう。体勢を立て直すんです」

 香川さんは、目の奥にしっかりとした光を宿したまま俺にそう告げた。


 頭の中を読まれたようで。

 俺は目を瞬かせる。


 確かにそうだ。

 相手が縁を切ってきたら、こちらも体勢を立て直し、再び縁を繋ぐことを考えなくてはならない。


 ずっと、切れたままじゃない。あきらめちゃいけない。


「学校に、戻ります」

 ぼそり、とスマホに向かって報告すると、芝原先生のため息が戻って来た。


「待ってる。香川さんにもよろしくな」

 芝原先生の言葉に、素直に「はい」と言って軽く頭を下げ、スマホの通話を切った。


「香川さん。社協まで送りますよ」

 俺はスマホを尻ポケットにねじ込み、彼女を見た。


「……いいですか?」

 遠慮するかな、と思ったのに彼女は少し躊躇った程度で頷いた。


「直帰なら、駅かどこかまで送りますよ?」


 俺は彼女と並んで門扉を出、車に向かって歩く。隣を歩く彼女は、顎を上げるようにして俺を見上げ、ふるふると首を横に振った。


「上司に報告しないといけませんし。事務所の片付けもできてませんから」

 そう言って、香川さんは腕時計を見る。俺も彼女の腕時計をのぞきこんだ。時間は17時10分。


「カッコいい腕時計ですね」

 左手で車の鍵をポケットから探り出しながら、右手で香川さんの腕時計を指差した。

『彼のものなんですけど』

 そんな台詞が返ってきても、落ち込まないように心を踏ん張る。だが知らずに息を止め、彼女が発する言葉の衝撃に備えている。


「いいでしょ。昔からこのメーカーの時計、好きなんです」

 香川さんが自慢そうに。そして、ようやく彼女らしく朗らかに笑って俺に言う。


 ぱくり、と。

 心臓がはねた。

 それほど、彼女の笑顔は可愛らしく、あどけない。


「そのメーカー、女性用もあるでしょう?」

 思わず目をそらして尋ねると、不満そうに香川さんは鼻を鳴らす。


「この、ごつごつした感じが好きなんです。女性用は丸っぽいでしょ?」

 まぁ、女性用ですから、と俺が苦笑すると、香川さんは肩を竦めた。


「初任給で買ったんです」

 そう言いながら、変身ヒーローのように手首を俺に向けてポーズを決めるものだから、俺は思わず笑い出した。


 ほっと、したのもある。

 なんだ、と。

 彼の物でも、彼から貰ったものでもなかったのか、と。


「どうぞ、乗ってください」

 運転手側の扉を開きながら、どこか心が軽くなる。


 軽くなるのを自覚し、田部のことを思い出して、途端にものすごく自己嫌悪に陥った。


 なにやってんだ、俺は。


 受け持ち生徒が虐待の可能性があり、現在も悩んでいるかもしれないのに、俺は馬鹿か。なにを、自分事で喜び、心を軽くしているんだ、と。

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