第38話 田部は俺に命じた 

 俺はゆるりと彼に顔を向けた。

 同時に。


「……え?」

 俺と香川さんは声を発し、それから田部を見た。


 田部は。

 俺達を見てはいなかった。


 うな垂れるように下げていた顔はいつの間にか上がっていて。

 その目は、一点を見つめている。


 その視線の先を、俺はつられるように辿る。

 何を、見ているのか。


 視線の先には。

 シミの目立つ、天井板があるだけだ。


「二階に、上がりましたか?」

 田部が再び問う。


「音が聞こえたから、誰かいるのかと……」


 香川さんが詫びるようにそう返した途端、田部は跳ね上がるように立ち上がった。ただ、また貧血を起こしかけたのか、ぐらりと上半身が揺れる、膝が崩れかける。


「田部……っ」

 俺は中腰になって慌てて田部の体を支えた。


「出て行ってください……っ」

 その腕を振り払い、田部はひとりで立つ。そして俺に命じた。


「田部君、ごめんね。あの……」

 何か言いかけた香川さんだが、田部はその彼女の手も掴んで、強引に引っ張り上げた。


「香川さんも、帰って!」

「田部、違う。二階から物音がしたから、俺が確認しようって……」


 田部が香川さんの腕を引っ張って振り回すものだから、俺は慌てて彼女の肩を掴み、自分の方に引き寄せた。


「先生も帰って!」


 俺の背を、どん、と田部が突いた。抵抗するわけにもいかず、俺は香川さんを抱えたまま、田部に押されるままに居間の出口の方に向かう。


「帰る。帰るね、田部君。あの、これ」

 俺の腕の中で、香川さんが身じろぎする気配があった。


「何かあったら、いつでも電話して」

 香川さんは、ポロシャツの胸ポケットから名刺を取り出した。どん、と何度も俺の背中を突く田部の掌に押し付けたが、田部はそれを叩き落した。


「ごめんね。勝手に入って、本当にごめんなさい」


 畳の上に落ちた名刺は、俺達を押し出す田部の足に踏まれて見えなくなる。香川さんは、それなのに泣きそうな声で田部に謝り続けた。


「田部、また来るけど。無理はするなよ。明日また、電話するから」


 俺と香川さんが廊下に出た瞬間。

 ぴしゃり、と襖が鼻先で閉められる。俺はそんな襖に向かって声をかけるが、返事も物音もしなかった。


「田部君。帰るね。さようなら」


 香川さんはそう言うと、微かに震える唇を噛む。どうやら、本当に泣き出しそうだ。俺はそんな香川さんの肩を押して玄関のほうに向かった。


「田部。じゃあまた明日」

 そう言って、廊下を進み、階段の前を過ぎる。


 過ぎて、ふと。

 気付いた。


 人形が。


 あの、猫の人形が、姿を消している。


 代わりに。

 階段のきざはしには。


 真っ白な。

 ちいさなちいさな。

 手形が残っていた。

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