第32話 俺は確かにそれを聞いた

 田部を挟んで向かい合って座った香川さんは、心配そうに田部を見おろし、そして忙しなく腕時計に視線を走らせる。そうかと思ったら、正座した足を崩して横座りになってみたり、意味なく肘をさすって見たりしていた。


「あの」

 そう言って顔を上げると、ばっちり視線が俺とぶつかってしまった。たじろぎながら、いやでも、良く考えたら、こんだけ彼女のことを見ていたら、そうなるよな、と顔を顰める。


「最近、体調がよさそうですね」

 不意に香川さんにそんなことを言われた。俺は目を瞬かせ、「はぁ」と返事にもならない声を上げる。


「いえ、あの……。初めてお会いした時、辛そうでしたから……」

 香川さんは言い難そうにそう言い、長い睫毛を伏せて俺から視線をそらす。


「すいません。プライベートなことだと思ったんですけど」

 俺が明確に何も言わないからだろう。語尾がどんどん小さくなり、最後には潰えた。


「ああ。体調が良いんです、最近」

 俺は慌てて返事をする。気を遣わせては悪い、と自分でも早口だと意識しながら答えた。


「過敏性腸症候群なんです。食べても食べても、出るもんで」

 そんなことを口走ると、今度は香川さんが顔を上げて、「はぁ」と間の抜けた返事をした。


「最近、薬が効いているのか、そんなに頻繁にトイレに行かなくても平気になったもんですから」


 思わず熱を込めてそう言ったが。

 嘘ではない。


 本当に、体調が良い。

 新学期が始まった当初は、20時以降に食事を取れば、必ず次の日の朝はトイレに籠らねばならず、出勤時間に間に合うのかどうか、といつも冷や冷やしていた。おまけに、痛みまで加わり、脂汗を垂らしながらの毎朝にうんざりしていたのだが。


 最近は、消化のよいものであれば、まず『痛み』がない。

 棒の先端で下腹部を押されたような、あの鈍くしつこい痛みがないだけで、どれだけ楽か。


 また、『食べる』ことが『苦痛』ではなくなったことに、心底安堵した。

 これを喰えば、またトイレだ、とうんざりしながらも、ただ体力維持のためだけに、食物を口に含むことの辛さから解放される日が、ある日突然来るとは思わなかった。


 治るにしても、徐々にだろう、とそんな風に思っていたのに。

 寛解期がこんなに唐突に訪れるとは。


「よかったですね」

 香川さんは、にこりと笑う。


「私の知り合いにもいるんです、過敏性腸症候群の人」

 香川さんはそこで少し眉根を寄せ、それからその知人なる者の話をしてくれた。それは、同じ病気であれば「あるある」と頷けるエピソードで、俺は時折苦笑しながら彼女の話を聞いた。


 話を聞きながら。

 俺の病状が、ゆっくりとだけど回復傾向にあるのは、彼女のお陰なんだと、実は気付いている。


 俺の仕事ぶりについては上司である芝原先生が認めてくれるし、指導してくれる。校長だって、実は気にかけてくれているのを知っている。


 だけど。

 共に頑張っている、という感じではない。当然だが、二人とも『上司』だ。俺の健康状態や、過去の出来事を知り、それら一切のことを慮って俺に接してくれる。


 しかし、香川さんは、そうじゃない。

 俺の過去のことなど知らず、病気のことも知らず。ただ、仕事のパートナーとして情報交換し、普通に接してくれる。


 その、『平等』さや、『対等』さに、俺は救われたのかもしれない。

 田部のことはもとより、相模さがみのことでも俺は彼女に相談し、彼女はそれに対して、いろんな方法を提示してくれることもあった。また、数は少ないが、彼女の方が俺に相談を持ちかけ、俺がその解決の一端を担ったこともある。


『ありがとうございます。助かりました』

 そんな屈託ない彼女の笑顔が、俺のぱっくり開いたままだった心の傷に蓋をしていったのは確かだ。


「ありがとうございます」


 彼女の言葉を聞きながら、思わず唐突にそんな言葉が口から零れ出た。香川さんは一瞬戸惑ったように瞳を見開き、それから首を横に傾げる。なんのことだろう。そんな顔をした次の瞬間だった。


 からん、からん、からん、からん。


 軽く、小さな音ではあったが、確かにそれは聞こえてきた。

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