第33話 誰か、いるのか

「……なんでしょう」

 香川さんが口を一瞬閉じ、それから俺と視線を合わせた。


「何か、転がり落ちましたね」


 俺も目を瞬かせて応えた。

 小さな音だったが、確かに、それは上部から底部へ、軽い小物が転がり落ちる音に聞こえた。


「どこから」

 そう香川さんが続けた時だ。


 今度は。

 電子音が聞こえてきた。


『ゆーきのひには、おそとであそぼ。南天つかって、ゆきうさぎ』


 耳に馴染みのあるその曲は、童謡のそれだ。この地方出身の童謡作家が作詞作曲したものらしく、幼稚園の合唱や、幼児・児童の帰宅を促す地区放送などでもやたらと耳にする。


「二階、ですね」

 香川さんが人差し指を立て、天井を指差した。


 俺もつられて天井を眺めた。板を渡しただけの天井は、木目よりも紙魚のほうが浮いて目に付く。シミュラクラ現象ではないが、なんだか人の横顔に見えるようなものもあり、俺がその紙魚を眺め続けているその間も、電子音とコンピューターボイスがリズミカルに曲を流し続けていた。


「誰か、いるんでしょうか」

 香川さんの言葉に俺は頷き、それから立ち上がった。


行橋ゆきはし先生?」

 不思議そうに尋ねられ、俺は襖の方に足先を向ける。


「見てきます。誰かいるのなら、田部のことを伝えたいし」

 俺の返答に、香川さんは顔をしかめる。『いないだろう』。そんな顔だが、もし、いるのであれば、田部の引継ぎをしたいし、この現状について少し話をしたいのは確かだ。


「いなければ、それで構わないわけですし」

「……猫とかだと思いますけど。ペットとかが、おもちゃを踏んだんじゃないですか?」


 そう言いながらも、香川さんは立ち上がった。俺と目が合うと、「一緒に行きます」という。


 一人より、確かに二人のほうが、家人に出会ったときに説明がしやすいかもしれない。俺一人だと、泥棒や、最悪痴漢と間違われて騒がれたらかなわない。俺は頷き、二人して居間を出る。


『はーれたひには、おそとであそぼ。雲をかぞえて、けんけんぱ』


 童謡『おそとであそぼ』の曲が、一際はっきり聞こえる。おまけに、エンドレスだ。俺は先に立って廊下を歩き、そっと玄関に戻る。階段は、玄関の近くにあったはずだ。


『あーそぼ、あそぼ。おそとであそぼ』


 階段の下まで行くと、だんだんメロディもコンピューターボイスもはっきりしてくる。


 そして。

 階段の一番下で。

 俺は、それを見つけた。


「……猫の……人形?」


 拾い上げ、まじまじと見つめる。


 10センチほどの、洋服を着た猫。毛柄はサバトラだった。ピンと立った耳の先は白だが、それ以外は灰色に黒の縞模様だ。ずんぐりむっくりした体躯だが、ピンクのワンピースを着て、二足で直立している。


「アニマルファミリーの、グレイですよ」

 間近で声が聞こえ、俺は視線を移動させた。すぐ側で、香川さんが背伸びをし、俺の手元を覗き込んでいる。ひょい、と顔を上げ、随分とうれしそうな顔で俺を見た。


「私、小さい頃、欲しかったんですよねぇ。ドールハウスとか、アニマルファミリーのキャラクター全部とか」


 そう言われ、俺はなんとなく、着せ替え人形を思い浮かべた。多分、リカちゃんとかそんな感じの、女子の心をくすぐるおもちゃなのだろう。実際、香川さんの瞳には憧憬の念と言うか、『欲しかったなぁ』というストレートな思いがにじんでいて、俺は思わず口元が緩む。幼き香川さんは、きっとこんな瞳でショーケースに並ぶ人形達を眺めていたのだろう。


「……すみません。子どもっぽいですよね」


 だけど、香川さんは羞恥で顔を赤くし、俺から顔を背けた。どうやら、俺の視線を誤解したらしい。「いえ、決してそう言うわけでは」と言葉を足したが、香川さんは、こほりと小さく咳払いをして表情を変えると、ふと、不思議そうに首を傾げた。


「でも、変ですよね」

 俺にそう言う。


「この家には、こどもと呼べる存在は田部くんだけです」

 俺は、おずおずと頷く。香川さんは、俺の手の中にある猫の人形を一瞥し、眉根を寄せた。


「これは、女の子が喜びそうな人形だと思います。男の子なら、レゴブロックとか戦隊ものの武器とかではありませんか?」

 言われて、俺は頷いた。俺が小さい頃はまったのは、ずばり、レゴだったからだ。そのあと、ベイブレードに流れた気がする。


「何故、男の子しかいない家に、アニマルファミリーのグレイが」


 香川さんが呟いた時、相変らずの音量で流れる『おそとであそぼ』の曲が聞こえてきた。


『あーめのひには、おそとであそぼ。かさをさして、ちゃぷちゃぷ歩く』


「……階上に、行ってみましょうか」

 俺は言いながら、階段に足をかける。猫の人形は、階段の一番下に置いておくことにした。


「上に、誰かいるでしょうか」 

 俺の背後から香川さんの声が聞こえた。ぎしぎしと階段が軋む音がするが、これは香川さんと言うより、俺の足元で鳴っている。


 不思議だと毎回思うのだが。どうして、他人の家の階段というのは、こんなに上りにくいのだろう。歩幅が合わない。足元でぎしぎしと不機嫌になる階段を踏みしめ、階上に上がった。香川さんもついてきているのだろう。気配は振り返らずとも感じていた。


『あーそぼ、あそぼ。おそとであそぼ』


 童謡はただ、単調に続いている。

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