第30話 今度、しっかりするのは、俺ではないのか

「そんなことできないよ。なんか手伝うよ?」

 久我山くがやまさんが顔を顰めてそう言うと、香川さんは少し悪戯っぽく笑って見せた。


「じゃあ、これに懲りずに今後とも、田部君の勉強をよろしくお願いします。それと、また、私の無理を聞いてくださいね」


 久我山さんは、そんな香川さんの表情に肩を竦めながらも、どこかほっとしたように頷いたのは確かだ。その表情を見ながら、やっぱりちょっと落ち込む。


 香川さんは、久我山さんの『心配だが、これ以上は面倒みられない』という心の動きに気づいていたのかもしれない。『何か買ってくる』と言いながら、この場を離れたかったか、それとも俺たちに対して、『もう結構ですよ』と言ってもらいたかったのかもしれなかった。


 それなのに俺は気づけず、あわよくば「何か買って来て下さい」と頼むところだった。


「じゃあ、またあとで報告頼むよ、香川さん」

 久我山さんはそう言うと、パラソルの下に置いていた自分の鞄を持ち上げた。そのあと、腰を曲げ、俺の腕の中の田部に声をかける。


「田部君。また来るよ。宿題は、今日のところはなしだ。ゆっくり休みなさい」

 久我山さんの声は聞こえているのか、聞こえていないのか。田部の瞼がわずかに痙攣したようにふるえたぐらいで、明確な返事や動きはなかった。


「失礼します」

 久我山さんが俺に頭を下げるので、俺も慌てて返礼をする。「こちらこそ、すみませんでした」。そう言うと、軽く手を上げて、久我山さんは門扉から出て行った。


「病院、どうしますか?」

 声をかけられ、俺は驚く。


「行った方がいいですよね」

 顔を上げ、その声にひかれるように香川さんを見て、俺は目をしばたかせた。


 香川さんは、バッグの肩紐をぎゅっと握りしめ、不安そうに田部と俺の顔を何度も何度も交互に見ている。声には不安さが滲み、動きは明らかに挙動不審だ。


 さっきまでの、堂々と指示を出す香川さんとはまるで別人に感じる。


「どうしましょう……」


 そう言う香川さんは泣き出す寸前のようで、「やっぱり、救急車」とか、「車で病院でしょうか」とか言う側から、田部君の顔を覗きこみ、「……田部君」と涙声で話しかけている。


「大丈夫だと思いますよ」

 不安なのだ、と思った。俺は確たる証拠も根拠もないのに、香川さんの顔を見上げて、そう言う。


「田部は、大丈夫」

 俺がもう一度そう言うと、香川さんは、不安そうに瞳を細かく揺らせながらも、小さく頷いた。


 さっきまで。

 きっと、さっきまで、自分の担当であるボランティアの久我山さんがいたから、しっかりしなくては、と気を張っていたのだろう。本当は、俺と同じで、こんな場合どうしたらいいのかなんて、彼女にだってわかっていない。


 わからないけれど、自分の役割を考え、そこから発言をし、その発言に責任を持つための行動をしたのだろう。


 だったら。

 今度、しっかりするのは、俺ではないのか。


 担当の生徒を抱え、協力してくれる彼女を支えるのは、俺ではないのか。


「もうしばらく、田部の様子を見ましょう。それでだめなら、一度保健室の養護教員に指示を仰ぎます」

 俺は言い、田部を横抱きに抱え直した。腕に力を入れ、持ち上げる。


 中学2年生だというのに、その体は予想以上に軽く、俺はそのことにも暗澹たる気持ちになった。田部の顔を見下ろすが、意識がぼんやりしているのか、反応が無い。


 一度。

 酔いつぶれた沙織を抱えたことがあるが、とんでもなく重たかった。

 彼女の体重が重い、というわけではなく、意識が飛んだ人間の体というのが重いのだ。起きてさえいれば、無意識に体重移動をしてくれるのだろうが、気を失った人間というのは、やたらめったら重たい。


 だけど。

 田部の体はひどく軽い。田部の体重は、一体いま何キロなのだ。


「扉、開いてませんか? 中に寝かせましょう」

 俺が香川さんに言うと、香川さんは頷き、赤茶けた玄関扉に近づく。

 錆びて緑青の浮いたドアノブを掴み、香川さんはそっと扉を外側に引く。


「すみませーん」


 顔を覗きこませ、香川さんは律儀に屋内に声をかけた。彼女の後姿というのを今まで見たことが無かったけれど、いつも着ているポロシャツの背中には、大きくせんと市社協のマスコットである『せんとん』と、社協名がプリントされていた。


「どなたかいませんかー?」

 息を吸って声を張ったのだろう。香川さんの薄い背中が少しふくらみ、それから澄んだメゾソプラノの声が屋内に響いていく。


 香川さんは動きを止め、耳を澄ます。俺も同じように屋内からの返事を期待しながら、だけど心の中で苦笑していた。


 そもそも。

 保護者がいれば、ボランティアの久我山さんに挨拶に出ているだろう。庭先で何か騒いでいれば、顔も出すだろう。


 なんの変化もない、ということは。

 これはもう。

 家人は不在なのだ。


「中に入りましょう」


 香川さんの背中に俺がそう声をかけると、彼女は振り返り、一瞬ためらったような顔をしたが、俺が抱える田部の顔を見て、決意したように頷いた。


 大きく扉を外に開き、俺に道を譲る。


 俺は「失礼します」とそれでも声を屋内に張り上げ、玄関先に体を滑り込ませた。

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