三章

行橋教諭と香川ボラコは田部家の中に入る

第28話 俺の仕事はなんだ?

◇◇◇◇


行橋ゆきはし先生!」

 車から降りた直後に、聞きなれた香川さんの声が耳に滑り込んだ。俺は手ぶらのまま、首を巡らせる。


「よかった! 同じ時間ぐらいでっ」


 声のする方に顔を向けると、西側の住宅路から香川さんが、御馴染みのポストマンバックをたすきがけにしたまま、駈け寄ってくるのが見えた。彼女の歩調に合わせ、ぼすぼすとバックは跳ね上がり、彼女の背中をリズミカルに打っている。


「走って来たんですか?」

 思わず尋ねると、「自転車、パンクして!」と返事がくる。いや、だったら公用車はどうしたんだ、と聞きたいけれど、そんな場合ではない。

 俺は香川さんとともに、田部家の門に向かう。


「香川さん! よかった、来てくれて!」

 門の内側からは男の声が聞こえてきた。


 鉄錆びた門扉は、開いている。


 そこから見えるのは、右に少々傾きすぎているビーチパラソルだ。そのビーチパラソルの影の下。雑草の上に、田部は仰向けに横たわっていた。


 側にいるのは、初回だけ顔を合わせたことのある学習支援ボランティアの久我山くがやまさんだ。ビアダルのような体型の彼は、額から玉のような汗を噴出し、片手に一冊ずつ持った大学ノートで、ばさばさと田部に風を送り続けている。


「どういう状況で倒れたんですか?」

 俺より先に香川さんは敷地に入り、久我山さんに尋ねる。


「いつも通り、ここで数学を教えてたんだ」

 久我山さんは、困惑した瞳を俺と香川さん両方に向けた。ふぅ、と彼が吐く息が熱を帯びたようで、俺もじっとりとした汗を首筋に感じる。


 俺は地面に横たわる、田部に近づいた。


『田部君が倒れたそうです! 今、学習支援ボランティアの久我山さんから連絡がありました』


 そう、中学校に連絡を香川さんが入れてくれたのは、つい10分前だ。


 ホームルームが終了したクラスから、随時教員が職員室に戻ってきて、随分と騒がしく、だが、やれやれ授業が終わったという、のんびりとした雰囲気が部屋中に漂っていた。


 俺も教室に施錠をし、職員室の自分の机に着いたところだった。

 スリープしていたパソコンを起動させ、俺は相模さがみのために数学教師が作った計算問題にルビをふろうとしていた。その直後。


『行橋先生!』

 事務員に名前を呼ばれた。振り返り、職員室に隣接している、事務室に首を捻る。事務員は、不精に顔だけ職員室に覗かせ、ひらひらと手を振って見せた。


『5番。外線です。せんと市社協のいつもの人』

 事務員はそれだけ言い捨てると、顔を引っ込めた。


『ボラコ?』

 隣の席で、湯呑みに入れた緑茶をすすっていた芝原先生が尋ねる。『どうでしょうか』と俺は口に出して首を傾げながら、ほぼ百パーセント香川さんだと思っていた。というより、香川さん以外のせんと市社協職員を俺は知らない。


『毎日電話かかってくるね』

 からかうような小声で芝原先生は言い、俺は苦笑して電話に手を伸ばした。芝原先生は好意的に受け取ってくれているようだが。


 俺はちらり、と背後の2年の学年団に視線を送る。

 そうでない教員もいる。


 俺と香川さんの仲を勘ぐっているようで、『公私混同』だの、『勤務時間内になにしてんだか』と吐き捨てるように言われたことがあった。


 もちろん、目も見ずに。


 俺は別に構わないが、香川さんに迷惑が掛かるのは避けたいので、今日あたり携帯番号を交換しようと思っていた。そうすれば学校に電話をかけてくる頻度も減るはずだ。


『お電話変わりました。行橋です』


 俺はペンとメモ用紙を引き寄せる。俺がまず電話番号を伝え、香川さんにも尋ねよう。芝原先生の隣で堂々と番号を交換するんだから、別に公私混同じゃない。そう言い聞かせていたときだ。


『田部君が倒れたそうです! 今、学習支援ボランティアの久我山さんから連絡があったんです』

 悲鳴を上げる寸前の声で香川さんは訴えた。


『え? は?』

 別のことを考えていたとはいえ、理解が出来ず、俺は間抜けにも問い返す。香川さんは『だからっ』と怒鳴り、続けた。


『久我山さんからさっき電話が社協に入って、田部君が倒れたそうです!』


 久我山さん、というのが、田部の学習支援ボランティアだとはすぐに気がついた。


 ボランティア先が『玄関外』で、『ビーチパラソルの下』だというのに、別に構わないと笑って承諾してくれた、と香川さんから聞いている。田部は中間テスト前の一週間、集中的に久我山さんの指導を受けた。


 その甲斐あってか、田部の中間テストはどの教科も平均点以上を叩き出している。危惧していた数学は、さすがに平均点すれすれだったが、それ以外の教科については、ほぼ80点以上、という高得点だ。


 田部が個室でテストを受けたせいもあり、カンニングを疑う教員もいたようだが、監督官は校長であったため、流石に大声で言うことはなかった。ちなみに、テスト終了と同時に田部は校舎から逃げ出すように走って出て行った、という。


 田部は中間テストを受けるために二日間は学校に来たが、そのあとまた、家に閉じこもっている。


 久我山さんは曜日を決めて、テスト終了後も夕方15時半から1時間程度、田部の家に学習指導のため、訪問してくれているようだ。情報は香川さんと能勢さんに報告しているようで、その内容は芝原先生や俺にも伝わっている。


『田部は大丈夫ですか? どんな状態で倒れたんですか?』

 俺が尋ねると、異変に気づいた芝原先生が、身を乗り出して早口に言う。


『救急車は?』

 そうだ、それだ。俺は頷き、おうむ返しに受話器に向かって言葉を吐いた。


『救急車は? 要請したんですか?』

『それが、田部君が拒否してるらしいんです』

 香川さんの困惑した声が電話から聞こえてきた。


『倒れてすぐ、久我山さんの呼び掛けには応じたらしいんです、田部君。それで久我山さん、救急車を呼ぼうとしたら、「やめてください」って』

 香川さんはため息交じりに続けた。


『じゃあ、病院に僕が連れていこう、って久我山さんが提案したら、「お金がないし、保険証がわからない」って……』


『……はぁ?』

 思わず口からは、堅い口調の声が漏れた。香川さんにこんな声を聞かせるのはお門違いだとは分かっていても、それでも腹から沸き起こる怒りが抑えられない。


『……親は……。親はなにを……』

『私は今から、久我山さんのところに行きます』


 食いしばった歯から漏れた俺の言葉を遮り、香川さんは断言した。その突き放すような口調に、はっと我に返る。


『俺は……。田部のところに行きます』

 思わず、そう呟く。そうだ。香川さんは、ボランティアコーディネーターなのだ。ボランティアの調整や困りごとを対処しに行くだろう。


 では、俺はなんだ。俺の仕事はなんだ。


『田部の様子を見に行きます』

 俺は受話器を握り、そう香川さんに告げる。

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