第27話 だって、あの家には……

 車は住宅街を抜け、二車線道路に出る。雨が降ってきたからかもしれない。やけに車の量が増えており、俺はウィンカーを出して慎重に合流した。


「門扉が急に開いたから私、転びそうになって」


 香川さんの言葉は、珍しく歯切れが悪い。車内には、なんだか言いよどむような、だけど誰かに話したいのだ、という意思が潜む声が響く。


「転ぶのを防いで、門扉にしがみついて……顔を上げたら、二階の窓が見えたんです」


 そういえば、香川さんは俺に肩を叩かれてつんのめり、そのあと、顔を上げて何かを凝視していたような気がする。


「そういえば、見てましたね。二階」

 俺が話を向けると、香川さんはこくりと頷いた。


「手跡が、見えたんです。手跡、思います」

 香川さんの声は硬く、まるで自分に言い聞かせるような雰囲気を伴っていた。


「どこに?」

「窓に」


 香川さんは俺の言葉に即答した。


「窓の、下のほうに……。手跡がふたつ。しかも、小さくて……」

「田部の手跡じゃないんですか?」


 俺はブレーキを調節しながら、首を傾げて見せた。

 あの家には、子どもと呼べる人間は田部しかいない。


 目の前の信号が黄色から赤に変わり、前の車が速度を落とす。俺もそれにあわせてブレーキをゆっくりと踏み込んだ。雨で視界がにじむせいだろうか。前の車のブレーキライトの赤がやけに眩しい。


 何かを、警告するように。


「田部君、私と身長があんまりかわりませんでした」


 香川さんがぼそり、とそんなことを言う。俺は信号の赤からも目を細めて顔を反らし、彼女を見た。

 香川さんは、どことなく顔色が悪い。


「そうですね。150センチちょっと、ってところですか?」

 俺の言葉に香川さんはうなずく。


「そしたら、手跡がおかしいんですよ。あの二階の窓、壁の三分の二ほどの大きさがあるんです。その、下のほうに手跡をつけようと思ったら」


 俺の視線を感じたんだろう。香川さんは俺に顔を向けた。真剣な双眸が俺を見る。


「こうなるんです」


 香川さんは指を下にして、手の平を開く。なんというんだろう。外国人が大げさに肩を竦めて見せるポーズに似ている。


「指を上に向けて、こう手跡をつけるには」

 香川さんは、今度は両手でハイタッチするように俺に掌を向ける。


「身長が大きすぎるんです。田部君の背では、あの位置に、この向きの手跡をつけられない」


 俺はなんとなく想像する。

 田部が窓辺に立ち、手をガラスにつける。

 指を上に向けてガラスに手をつければ、確かに窓の中央あたりに手跡は付くだろう。


 窓の下部分に手跡をつけようとすれば。

 立ったまま、手を降ろし、気をつけの姿勢で窓に掌を押し当てる。


 すると。

 確かに、指は下を向く。


「やけに小さかったし。それに……」


 香川さんの語尾が少し震えて潰え、俺は彼女の目を見た。

 大きく、二重のぱっちりとした瞳には影が過ぎり、目元はなんだか強張っている。


「手跡が、動いたような気がして」


 そう呟いた途端。

 車内に警告音が鳴った。

 同時に背後から大きなクラクションが響いてくる。


 俺と香川さんは同時に悲鳴を上げ、慌てて周囲を見回す。

 なんだ。なんの警告音だ。


「先生! 青!」


 香川さんがまだ悲鳴の余韻が残る声で俺に告げ、俺は慌ててブレーキを外してアクセルを踏む。前の車はとうに数メートル先を走り出しており、ルームミラーを一瞥すると、背後の軽トラックの作業員が斜交いに俺を睨んでいた。警告音自体は、先行車発進機能だったらしい。


「でも、きっと気のせいです」

 香川さんが、つぶやくのが聞こえた。


 俺は拍動する心臓を、なんとか宥めすかしながら、交差点を直進する。ゆっくりとアクセルを踏み込んでいくと、前の車との距離は徐々に縮まっていった。


「気のせい?」

 俺は尋ねる。香川さんは胸の前でポストマンバックを抱え、頷いた。


「だって、あの家には、田部君以外の子どもは、いないんだもの」

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