第26話 予想外の返答に、俺は眉根を寄せた

「私、こっちなので」

 香川さんの声に振り返ると、彼女は頭の上に左手のひらを置いて雨を防ぎ、右手で東の道を指さしていた。


「え? 香川さん、何で来たんですか?」

 彼女の指さす方向には、自転車も、ましてや車も見えない。驚いて尋ねると、香川さんは、にっこり笑った。


「徒歩です。社協の事務所は、ここから歩いて10分ですから」

「歩いて10分、って」

 俺は呆れて、自分の車を指さした。


「事務所に帰るころにはずぶ濡れですよ。乗ってください、送りますから」

 そう言うと、香川さんは目を丸くして首を横に振る。


「いえ、結構です。本当にすぐですから」

「そんなこと言ってないで、ほら、早く」


 雨粒がだんだん大きくなってきて気が急いた。俺は多少語気強く彼女に告げる。自分の車に近づき、運転手席側のドアノブに触れると、ロックが解除された。


「ほら!」

 乗り込み、腕を伸ばして助手席の扉を軽く開くと、ようやく香川さんがためらいがちに乗り込んできた。


「すいません。お邪魔します」

 香川さんは背中に回していたポストマンバックを腹側に回し、小さくなって助手席に座る。


 座ってから。

 汚くなかったよな、と慌てて俺は車内に視線を走らせた。


 後部座席を覗き込み、なんだかレジ袋が視界に入って焦る。何買ったっけ、と考え、昨日仕事の帰りにコンビニで買ったペットボトルだと思いだす。見られて困る物ではないのだが、なんだかだらしない男に見えて、サイドブレーキの側に置いていた自分の鞄を放り投げて置くことで隠した。


「社協まで送ればいいですか?」

 俺はシートベルトを締め、助手席の彼女を見る。


 香川さんは何度かシートに坐りなおしていた。居心地悪そうに座席の上で身じろぎしたものの、ダッシュボードや助手席の扉付近に視線を走らせて、それから俺の方を見た。


「すいません。お願いします」

 すまなそうにハの字に眉を下げ、香川さんは俺に告げる。


 ぱくり、とわずかに心臓が跳ねた。


 助手席に女性が乗ったのは一体いつ以来だろう、とそんなことを考え、俺は慌てて思考を止める。いかん、いかん。普通に。普段通りにしていなければ。


 意味なく咳払いをしてエンジンをかけ、ブレーキペダルを踏んで、サイドブレーキに手をかける。


「あの」

「はい」


 声をかけられ、思わず動きを止めた。

 俺は首を横に向け、香川さんを見る。


「あの、確認したいんですが」

 香川さんはシートベルトを受け口に差し込み、真剣な顔で俺を見ていた。


「……はい」


 さっき、おかしなことを考えたから、何か警戒されたんだろうか、と内心怯える。いや、不埒な事は考えたつもりはない。ただ、単純に、助手席に女を乗せたのは久しぶりだなぁ、と思っただけで……。


「田部君の家族構成なんですけど」


 そう尋ねられ、俺は息を吐く。思わず息を止めていたらしい。俺は苦笑しながら、「なんですか」と聞き返して、サイドブレーキを下す。静かに車を発進させた。


「実のお父さん、それから義理のお母さん、田部君の三人であの家、住んでいるんですよね?」

「はい」


 俺は答える。「国道に出ればいいんですか?」。ウインカーを出しながら、俺は香川さんに尋ねた。粒の大きな雨がフロントガラスに次々と当たり、ぐしゃりと潰れて伸びて行く。それを、ワイパーが消し取り、艶やかなガラス面に妙な光を滲ませた。


「国道に出てもらって、北に……。あの、庁舎の方に進んでもらえれば」

 香川さんの返事に俺は頷く。


「だったら、私の見間違いですよね」

 香川さんの呟きに、俺は視線だけ助手席に向けた。


「何を見間違えたんですか?」

 正直、特に興味もなかったが、話を続けようと鸚鵡返しに尋ねてみた。


「手跡が」

「……手跡?」


 予想外の返答に、俺は眉根を寄せた。

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