第17話 俺は早歩きで、職員室に駆け込む

「先生、彼女いない歴どれぐらい?」

 タブレットと筆箱を抱え、相模さがみは立ち上がって俺を見る。目線がほぼ同じぐらいというのだから、中学2年生では相当な背の高さだ。


「まさか『年齢イコール彼女いない歴』じゃないよね」

 可笑しそうに笑う相模を、じろりと睨みつけて見せた。


「お前の状態だと、もうすぐ『年齢イコール別れた彼女数』になりそうだな」

「え! なんで坂田と別れたこと知ってんの!?」

 相模の驚いた顔に、少し溜飲を下げる。


 生徒たちが思っているよりもずっと。

 職員間の情報共有量は多い。

 何組の誰と誰がつきあっている。いや、別れた。誰々は、最近他校とつきあいがあるらしい。どうやら出会いは、先日の地区予選だったようだ。等々。


 生徒間の交友関係も含めての生徒指導になるので、ある意味香川さんが言うように、学校が「勉強だけ教えればいい」というのは極論だ。

 勉強を教えるために、その背後を探る必要が出てくるからだ。


「じゃあ、先生はひとりの人とじっくり付き合うタイプなんだ」

 相模が再びにやにや笑って聞いて来るから、俺は無視をして机の上の文房具を黙々と片付ける。


「飽きない?」

 赤ペンを胸のポケットに挿しこんだら、意外に真面目そうな声が耳に滑り込んできた。

 顔を上げると、相模が俺を真っ直ぐに見ている。


「ずーっと一人の女の子と付き合っててさ。飽きない?」

「相模は飽きるのか?」

 俺は逆に聞き返した。「飽きる」。即答だった。


「俺の両親は今年結婚十七年目なんだけどさ。よく同じ相手と一緒に居て飽きないなって心底思うもん。逆に、浮気した芸能人の話の方が、俺にとっちゃリアルだよ。年がら年中一緒にいて、それで何が楽しいのって思う」

「相模のご両親は楽しそうなんだろう?」


「うち、息子の前でもイチャイチャして、気持ち悪い。いつまで仲が良いんだか……」

 顔を顰めてそう言うから、俺は思わず噴き出した。そんな俺を見て相模も笑ったが、ぼそり、と低い声で呟いた。


「俺、LDだから、やっぱり変なのかな」

 俺は笑い顔を作ったまま、表情を止める。何気なさを装い、相模を見た。


 相模は。

 へらへらした笑みを張り付けてはいたものの。

 その目の奥は、必死に俺を見ている。


「LDだから、すぐ飽きるし、将来不倫とかしちゃって、離婚とかするのかな」

「そんなことはない」

 俺は断言する。


「出会ってないだけだ」

 俺はその目から視線をそらさず、相模に言う。


「この女の子の側にずっと居たいとか、この女の子を笑わせてやりたいとか。もっと言えば、この女の子をずっと自分の手元に置いて幸せにしてやりたい、とか。そんな風に思う子に、まだ出会ってないだけだ」


 俺は強い口調でそう言った。

 そう、言われることを。

 相模が望んでいるように思ったからだ。


「そうかな。出会うと分かるのかな」

 俺でもわかるのかな。不安そうに呟く相模に、俺は頷く。


「不倫がダメなのは、自分以外の皆を傷つけるからだ。『一生一緒にいます』と誓って結婚や交際をしているのに、嘘をついて他の誰かと交際をするからだ」

 俺は俯き加減の相模に言った。


「相手を傷つけたくない、失望されたくない、と思ったら。きっとそんなことを考えないし、しようとも思わないよ。相模はそんな子だ。人を傷つけたり悲しませるようなことはしない子だと、先生は思う」


 相模は俺の言葉を、何度も頷いて聞いていた。少しの沈黙が俺と相模の間に漂い、俺は辛抱強く相模が話し出すのを待つ。


「なぁ、先生」

 相模が顔を上げる。


 その顔を見て、俺はほっとした。

 いつもの。

 あの、陽気で、悪戯っぽく、この年齢らしい少し傲慢さを帯びた表情だ。


「お互い、そんな女の子を見つけたら、紹介し合おうな」

 そう言われ、俺は笑いながら頷いた。


「ほら、早く教室に戻れ」

 俺が促すと、「はいはぁい」とおどけた返事をして、相模は廊下に飛び出していった。


「扉を閉めないか」

 開けっ放しのまま走って行った相模にそう声をかけたが、もう大分遠くまで行ってしまったようだ。俺は苦笑し、筆記用具を持って扉に向かう。


 向かいながら、ふと思い出した。

 今から外出し、そのあと直帰するのだ。

 この、俺の教室にはもう今日は誰も戻らない。施錠を確認せねば。


 そう思って、窓に近づいた。

 この教室には、机が4脚と教壇があるだけだ。


 俺は、だだっ広い教室を横切る。

 終会が始まっているからだろう。グランドに人影はなかった。

 窓越しに空を見ると、梅雨本番らしい、曇天だ。

 灰色の大きく垂れさがる雲は、針でつつけば、ぼたぼたと滴を垂れそうなほど雨を含み、俺は顔を顰めた。


 田部の家に訪問する間は、降らないでほしいな。

 そう思い、俺は施錠を確認して、カーテンを引く。

 教室後方の出入り口を中から施錠し、黒板横の出口から出て、尻ポケットを探った。

 キーケースを引っ張り出し、教室を施錠すると、俺は職員室に向かって歩く。


「明日から、テスト期間一週間前だ」

 3年5組の前を横切ると、廊下側の窓を全開にしているせいで、教員の説明が漏れ聞こえてきた。


「部活動は……」

 ちらり、と廊下越しに教室を見ると、教壇の方を向いて真面目に聞いている生徒たちの姿が見えた。


 じりり、と。

 焦りに似た、切迫感が胸に湧く。


 俺だって……。


 いまだに、そう思う自分がいた。

 俺だって、1年前まではあそこにいたんだ、と。


 今の仕事内容に不満があるわけじゃない。

 特別支援教育が片手間にできるわけじゃないことだって、知っている。


 だけど。

 俺は、『中学校の社会の先生』にあこがれて、教員を目指したのだ。


 俺の理想の姿は、教壇にあるんだ。

 そんな苦い思いを飲み下すと、ぎゅるり、とやっぱり腹が不穏に鳴った。


 俺は息を吐き出し、早歩きで職員室に駆け込む。

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