第18話 どうして俺を責める
「今から家庭訪問かい?」
自分のデスクの上に筆記用具一式を置き、鍵を使って下段引き出しを開ける。中に入れていた鞄を取り出していたら、隣の席の芝原先生に声をかけられた。
「はい。教頭先生にはすでに報告しています」
俺は、筆記用具一式を乱雑に鞄に放り込みながら、机の上のノートパソコンの電源を落とした。
「そのあと、直帰?」
その様子を見て、芝原先生が尋ねるので、俺が頷こうとした矢先だ。「いいなぁ。部活顧問免除で、特別支援学級の先生は」と言われた。
反射的に俺と芝原先生は振り返る。
声は背後からしたからだ。
そこは。
2年部担当の机が集まる"島"だ。
俺たちに背を向け、4人ほどの教員が黙々と事務仕事をしていた。
「……気にするな」
芝原先生は声には出さず、口だけ動かして俺に伝える。なんとなく曖昧に頷いた。
気持ちは、わかる。
皆、20時を回って帰れればいい方だ。俺だってそうだった。
部活の片付け、明日の授業の準備、校務分掌の仕事、保護者対応。
今日はここまで、という区切りなどない。
毎日毎日、事務仕事と力仕事が境目なくやってくる。
だけど。
俺は特別支援学級の教員を、見下したことなどなかった。
逆に、自分にはできないきめ細やかな対応に、畏敬の念すら抱いていた。
だけど。
いざ、自分が特別支援学級の教員になってみれば、「いいなぁ、受け持ち人数が少なくて」。「いいなぁ、保護者も協力的で」。「いいなぁ。学力を気にしなくて」。
そんなことを言われた。言われ続けた。
だけど。
俺は言い返さない。反論もしない。そう思うのは自由だ。
だけど。
だけど、だけど、だけど、だけど。
言い続けるのはどうしてだ。どうして俺を責める。
俺は怒鳴りつけたい衝動を飲み込み、電源の落ちたパソコンを閉じた。
乱雑に引き出しに放り込み、鍵をする。がちゃがちゃと騒がしい音が鳴ったが、知るもんか。隣で芝原先生が何とも言えない表情をしていたが、俺は顔を背け、鞄を持った。
「えっ⁉
不意に
顔を起こすと、終会を終えて職員室に戻ってきたところなのだろう。さすがにフィールド競技だけあり、黒々として日に焼けた顔で、足早に俺に近づいてくる。
「今日は、家庭訪問があって……」
「すぐ! すぐ終わるからっ」
俺の説明を食い気味に、阿川先生は怒鳴るような大声で言ったあと、抱えていた書類を自分のデスクに投げ出すと、代わりに一冊のノートを掴んで駆け寄ってくる。
「これ、
そう言って、突き出すように俺に見せた。全体的に、丸い阿川先生は、浅黒い皮膚も相まって、生徒から「ヒグマ」と呼ばれている。
そのヒグマが。
意外につぶらな瞳で俺を見つめていた。
俺は鞄を一度椅子の上に置き、躊躇いながらノートを受け取る。
なんの変哲もないA4版のノートだ。表紙には阿川先生の文字で、『部活動ノート』と書かれている。その下には、自分で書いたのか、殴り書きのような
多分。
一日の反省なんかを生徒が書き込み、次の日回収して阿川先生が添削したり指導したりするのだろう。
俺はぺらり、とノートをめくる。
そして。
苦笑した。
みみずの這ったような、筆圧の無い文字で相模は「なにもなし」と書いていた。
どうやら入部当初から続く部活動日誌のようだ。
日付を追うようにして、頁を繰る。
毎日が、「なにもなし」だ。
そして毎日、阿川先生が、「何かあるだろ!」と赤文字で記している。
阿川先生のコメントとあわせて、せいぜい数行なので、日数は増えても頁は減らないらしい。1年ほど、「なにもなし」と、「何かあるだろ!」「ちゃんと書け!」が繰り返されていたが。
ある日。
『シュートがねらいどおりうてた。みんながよろこんでくれて、れんしゅうじあいだけどうれしい』と書かれていて、俺は手を止める。
思わず、日付を見た。
つい最近だ。
「カタカナが出たんだ」
阿川先生が、俺の心を読んだように言う。「次の日、見てよ」。促されて、視線をノートに降ろす。
『今日は、ゴールのすみをねらったが、入らない。もっとせいどを上げなくては』
「漢字が出てるんだ」
そう言う阿川先生の声は、若干涙声で、俺は驚いてノートから顔を起こす。
阿川先生は、唇を噛んで涙を堪えていた。
「一番最後の日見て。昨日、あいつが書いたやつ」
言った瞬間阿川先生の目からぼろぼろ涙が流れ、俺の隣で芝原先生が慌ててティッシュの箱を差し出していた。
俺は頁を飛ばし、昨日の日付を見る。
『ぼくはFWだが、もっと広い視野を持つべきだと思った。今からいろんな経験をし、チームの勝利に活かしていきたい』
「アルファベットが出たんだよ!」
阿川先生は、盛大にティッシュで鼻をかみ、かんでから芝原先生に、「や、どうもすいません」と礼を言った。
「もともと知的障がいはありませんからね。文章を書くことには問題がなかったんでしょう」
芝原先生は穏やかに頷きながら、阿川先生に話しかける。「そうなんですよ」と阿川先生は沈んだ声で答えた。
確かに。
当初から、文字は別として文章としては成り立つことを相模は書いていた。逆に知的に障がいのある生徒はもっと定型的な文を書く。
俺は改めてノートを見た。
筆圧は相変わらずで、文字の大きさや形などを気にしていたら仕方がないが。
それでも、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「アルファベット」を駆使して、何かを伝えようとしてきている。
「あいつ、さぼって書かなかったんじゃなくて、書けなかったんです」
阿川先生は、しょぼんとした瞳を潤ませ、俺にそう言った。
「ひらがなはなんとか書けたんでしょう。でも、ひらがなだけ使って書いたら、きっと僕はまた怒ってたと思う。『真剣に書け』『漢字を使え』って……」
阿川先生は「だから、『なにもなし』だったんだ、毎日」と呟いたあと、続けた。
「きっと、言いたいことや反省したいことや、嬉しかったことや……。いろんなことを、僕に伝えたかったはずなのに、その『文字』が判らなかったんだ。そう思ったら」
阿川先生は、ぼろぼろとまた泣き出した。
「僕は、なんて勘違いな事であいつを怒り続けたんだろうって」
阿川先生はそう言うと、盛大に鼻をかんだ。
俺は再び手の中のノートに視線を落とす。
使い続けて二年目に入った汚いノートだ。角は折れて丸まり、最初の方のページはくしゃって膨らんでいる。多分、毎日きちんと書いていれば、すでに3冊目、4冊目と進んでいる部員もいるだろう。
相模のノートは、1年生から毎日書いて、まだ1冊目だ。
それでも、毎日書いていた。
『なにもなし』
ひらがなでそう書き続けた相模の気持ちはどんなだっただろう。
『何かあるだろ! ちゃんと書け!』
そう書かれ続けた相模の気持ちは、どんなだったろう。
『ぼくはFWだが、もっと広い視野を持つべきだと思った。今からいろんな経験をし、チームの勝利に活かしていきたい。』
そう書けた、相模の気持ちはどんなだったろう。
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