第16話 俺は、相模に向き合う

 芝原先生は相模さがみの話を聞き、両親に専門機関への受診を勧めた。


 結果。

 相模は、学習障害LDと診断された。ようするに知的障害は無いのだが、脳の機能的な問題で「読む」「書く」「推論する」のどれかに障害があるのだ。

 相模の場合、「読む」「書く」に、生活に支障が出るほどの障害がある。


 両親は注意欠陥障害を小さな頃から疑っていたらしいが、それは無いらしく、純粋に学習面、とくに視覚処理に問題があるLDということだった。


 相模本人が高校への進学を強く希望しているため、特別支援学級への移籍はせず、「不登校対応」である俺の教室に特定の教科の時だけ通って個別課題をこなしている。


 英語、数学、国語だ。

 残念なことに俺の専科である社会は、点数は悪いが私立受験に必要ない、ということで外された。

 各教科の先生から彼用に作ってもらったプリントを、俺の教室でこなすのだけど……。


 どうみても、「解けている」とは思えない。

 本人も、「学校へ行く」ことが目的になってしまって、「勉強をする」という意識が希薄だ。


 俺の教室で、俺とうだうだ世間話をし、課題プリントを適当にこなし、適当にこなすから全く学習が定着せず、結果、ただただ、「時間を潰しに学校にいる」状態だった。


 これでいいんだろうか。


 それは5月の連休を過ぎたあたりから、ずっと抱えいてた疑問だった。

 俺自身、特別支援学級を受け持つのは今年が初めてだ。どれが正解で、どれが良い状態なのかよくわからず、芝原先生に尋ねると、「まずは学校に来つづけることが大切だ」と言われ、負荷をかけるのをためらっていた。


 その状態で。

『学校が、教育や学習指導を放棄したら、一体何を子どもに教える気ですか?』

 香川さんの、あの言葉は、胸を突いた。ぐさりと刺さった。


 翌日。

 相模がプリントに文字を書いている姿を改めてみると、シャーペンの持ち方がおかしいことに気づいた。


『相模、正しく持て』

 そう言って、持ち方を教え、書かせようとしたのだが、書けない。


 書けても、筆圧が無い。

 試しに相模と握手をしてみたら、ほとんど力が無い。


 最初、ふざけているのかと思って、『先生は剣道をやっていたから、いくら強く握っても平気だ』と伝えてみたが、本人はきょとんとしていた。


 握力が、ないのだ。

 彼の得意競技がサッカーだから気づかれなかったのだろう。これが、手に道具を持って行うスポーツや競技なら、きっと誰かもっと早くに気づいたに違いない。

 いろいろと試した結果、相模は指を使うことが、ものすごく苦手なんじゃないかと思い始めた。


 俺は相模の母親と連絡を取り、もう一度専門医に受診してもらった結果。


 粗大運動は得意でも、微細運動が苦手だということがわかった。

 胴体や四肢の大きな筋肉を上手く動かすことは出来ても、指先を使うような(箸でモノをつまむ、ボタンを嵌める、など)は、療育が必要なほど苦手だ、ということらしい。


 母親も「そういえばいまだにシューズの靴ひもが結べず、仕方なく親がかた結びにしたシューズに本人は足を突っ込んでいるだけ」と言いだした。


 作業療法を勧められて、母親はその場で予約を取ってきたそうだ。

 専門医が言うには、「目からの情報処理が苦手なところに来て、筆記など微細運動が必要な作業を連携して行う『板書』が出来なくなったため、徐々に勉強がわからない状態になったのだろう」とのことだった。


 医者から説明させれば。

 複雑な漢字や英単語を、ただひたすらプリントに書かせるのは、彼にとって苦行以外の何物でもない。あなたがもし、アラビア文字の意味も説明されず、毎日机にきっちり座って、剣道の籠手を嵌めた状態で鉛筆を持ち、8時間以上文字を書かされたらどう思いますか、ということらしかった。


 俺はそれを聞き、愕然と彼が毎日こなしたプリントを見る。

 国語も。

 英語も。

 専科の先生が作った、「彼特製プリント」は。

 ひたすら、英単語や漢字を書かせるものだった。


 数学についても同様だ。

 似たような問題が、ただただ、延々と続いている。

 彼にとって意味をなさないまま。


 俺は三教科の先生に「しばらくプリントをお休みしたいです。彼が疲れているので」と伝えてみた。


 いい加減、特別対応にうんざりしていたのか。

 どの先生も「かまいませんよ」というだけで、理由など聞かれもしなかった。


 俺は相模のお母さんに、『タブレットを購入してもらえませんか。授業で使いたいのですが』と頼んでみた。ダメ元だ。無理、と言われれば、俺が買おうと思っていた。


 もちろん、学校には彼専用ののタブレットがある。国が配布してくれたやつだ。

 だが、それには自由にアプリをいれることができない。もっというなら、俺個人の判断で勝手に使用ができない。

 私学ならもっと柔軟な使い方ができるのだろうが、公立中学では国から配布されたタブレットはただ「動画を見るだけ」の道具だった。しかもしょっちゅうどこかで生徒が落として破損する。その修理費用に貴重な予算が消えていく。それを防ぐために教員はできるだけ「使用しないように」とまで考えていた。


 だが、相模にはタブレットが必要だ。彼個人の。


『わかりました。すぐに購入します。機種やメーカーはどんなものがいいですか?』

 相模のお母さんの判断は早かった。その判断基準が、俺への信頼だと気づき、涙が滲むほど嬉しかった。


 早速購入したタブレットを持参して相模が登校したのは、数日後だった。

 学校での使用については、校長先生が直々に相模にルールを教え、持ち込みを許可してくれた。


『個人タブレットは、行橋先生の前でしか使っちゃいけない。分かったね』

 校長先生は何度も念を押し、相模は律儀に頷いた。


 こうして。

 俺の教室に来て「英語」と「国語」を勉強するときは、タブレットにダウンロードしたアプリを使って行うことになった。


 ドローイング機能の入った無料勉強アプリで、パネルを指でなぞると、文字が書けるようになるやつだ。


 これだと筆圧や「モノを持って書く」という苦労が無い。

 ノートの行線やマス目を気にせず、のびのびと大きく書くこともできる。


 存外相模も気に入ったらしく、この2週間で小学校高学年程度の漢字はクリアした。

 英語については、アルファベットの大文字と小文字を間違えずに書ける所まで進んでいる。


 良く考えたら。

 アルファベットすら理解していない生徒に、長ったらしい単語をただただ書かせ続けるのは、確かに苦行以外の何物でもなかっただろう。


 現在。

 毎日毎日。

 ただ、ひたすら「書く」ことには違いないのだが、その「方法」を変えるだけで、こんなに改善するのか、と俺自身が驚いた。


 本人も。

 自信がついたらしい。


『先生、この字、どこが間違ってる?』

 と、最近は質問までしてくるようになった。


 あとは。

『超苦手』

 という数学をどう『まぁまぁ、苦手』にするかが課題だ。

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