第9話 俺は、田部に話しかけ続ける
「田部が、鼻声だったことがあったんだよな」
芝原先生が水を向けてくれた。
俺は慌ててうなずく。
「五月のゴールデンウィーク前に電話をしたとき、田部の声が鼻声に聞こえたもので……」
お母さんは、用事で外に居ます。
そう言った声が若干かすれていることに気がついた。一瞬泣いているのかと思って狼狽えたが、どうやら違う。
『風邪か? 大丈夫か?』
思わずそう尋ね、電話口に沈黙が訪れる。
しまった、と思った。
反射で口にしてしまったが、いつもと違うことを言うべきではなかった。
おまけに。
田部は欠席の理由を『体調不良』だと言っているのだ。それを『風邪か?』と聞きなおしてどうするんだ。まるで信じていないようではないか。
俺は後悔し、「ゆっくり休めよ」とでも言って電話を切ろうとしたのだが。
『ヒノキのアレルギーなんです』
受話器から聞こえてきた田部の声に、俺自身がフリーズした。
違う言葉を喋った。
唖然と、俺は事務用机に乗る電話を見つめる。
電話番号表示が出ているだけの、味も素っ気も無いベージュ色した電話だ。
もう何度も何度も田部の家にかけているから、空でプッシュホンが押せる番号が表示された電話を、俺はただただ見ている。
『昨日、窓を開けて寝たら朝、鼻水が止まらなくて』
『薬はあるのか?』
受話器から続けて聞こえた声に、俺はすがりつく思いで尋ねる。慌てて声を発したからか、俺の声は語尾で妙に音程を外した。朝礼前の職員室は、自分のことで皆慌ただしいようで、俺の妙な焦りに気付く者はいなかった。
『去年のものが、まだ残ってます』
いつもと違う言葉を話す田部は、随分と関西弁訛りがあった。
『そうか。消費期限を見ろよ』
俺は言葉を続ける。
嬉しい。じわり、と胸の底からせりあがるのは、純粋に、自分に向かって話しかけてくれている生徒の存在だった。
『消費期限って薬にもあるんですか?』
訝しそうな声に、俺は両手で受話器を握って頭を縦に降った。
『ある。外装を見てみろ』
そこで、俺はごくりと空気を飲み干した。
『わからないなら家まで見に行っても良いぞ、先生』
ここで小さな勝負だ、と思った。
返事はどちらでもいい。『来てくれ』でも、『嫌だ』でも。
ここで否定的な返事が来たとしても。
きっと、次がある。
俺は確信していた。
受話器から聞こえてくる、アクセントが俺と微妙に違うこの声に、俺は決定的な自信を持っていた。次がある、と。
田部は、俺に興味を持ち始めている。縁を繋ぎたがっている、と。
『……お母さんに聞いてみます』
田部は、さっきより少し硬い声でそう答えた。その言葉には警戒が滲んでいる。
『そうか』
俺は知らずに詰めていた息を吐く。深追いは避けよう。『わかった』。そう続け、それから尋ねる。
『お母さんの携帯番号を知らないか? 一度ゆっくりお話がしたいんだ、先生と』
田部からの返事は、『聞いておきます』だった。
「以降、彼とのやり取りに進展があったんですね?」
能勢さんは、ゆったりとした視線を俺に向けた。俺は頷く。
気付けば。
腸の動きは気にならなくなっていた。
「挨拶と体の具合とを聞いたあと、ちょっとした近況を報告できるようになりました。最初は1分も間が持たなかったんですが、今では5分程度のやりとりを毎朝しています」
「家庭訪問は、それ以降どうなっていますか?」
能勢さんが尋ねる。
「まだ、
俺の代わりに答えたのは、芝原先生だった。能勢さんは、わずかに眉間に皺を寄せる。
「携帯番号を、田部くんは伝えてきたんですね?」
「はい。
芝原先生の言葉に、俺は頷いた。
実際。
田部から、『携帯番号のことなんですが』と切り出されたとき、咄嗟になんのことかよくわからなかった。
『うん』
と、答えてから、目まぐるしく頭を動かし、田部が伝える電話番号を書き取った。
『お母さん、夕方なら電話に出られるそうです』
そう言われて、ああ、これは母親の電話番号か、と思いついた。田部の、義理の母だ。携帯番号を知りたい、と伝えてから随分と経つ。ひょっとしたら田部は母親の機嫌の良い時を見計らい、そっと伺いをたてたのかもしれない。
『そうか、ありがとう』
丁重に礼を述べると、わずかに電話口で身じろぎする気配があった。田部は会釈をしたのかもしれない。そのあと、静かに通話は切られた。
「電話をしてみたんですね?」
能勢さんは、俺や芝原先生を曖昧に眺めて尋ねる。芝原先生は代表して頷いた。
「僕がしてもよかったんですが、田部との人間関係を考えると、ここは行橋先生だろう、と学年主任も判断しましたのでね。その日の夕方に電話をしました」
芝原先生は、さらりとそう言うが。
その日、電話をかけるまでが大変だった。
俺の腸は中の物を排出してもなお、何か出そうと必死に動くし、動くたびに地味に痛い。
便所の個室で脂汗を流しながら昼休みと休み時間を過ごし、授業中はなんとか便所に駆け込むことは防げた。
受け持ち生徒が一人だけ、というのはこういうとき、ほっとする。
しかも俺の体調が悪いことを生徒自身も知っているだけに、逆に気遣われたりした。
そんな風に日中を過ごし、夕方の4時ごろ、校長先生に隣に立ってもらって、俺は電話をした。
本当は芝原先生に側にいてほしかったのだが、部活動指導があると言われれば黙るしかない。俺だって、去年まではそうだった。職員会議は忘れていても、部活動指導や行事を忘れたことは無い。
「お母さんはなんておっしゃいましたか?」
ここで尋ねたのは、香川さんだった。
少し驚いて俺は彼女を見る。
香川さんは。
義憤に駆られたような表情で、俺を見ていた。
「お母さんにも、なんらかの事情がおありなら、私は田部君への態度が納得できると思います」
そう断言する彼女に、なんとなく俺を含めた教師サイドは苦笑する。
彼女は。
この状態のまま生徒を放置している母親に、怒っているらしい。
そんな彼女に、俺は告げる。
「お母さんは、『放っておいてください』とおっしゃいました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます