第6話 俺は、情けない

「ボラコさんでしたか」

 俺は香川さんに向けていた視線を芝原先生に向けた。先生はペンを持ったまま、驚いたように少し目を開く。


「ぼら子?」

 思わず尋ねる。くすりと笑い声がしたと思ったら、香川さんだった。指で空にカタカナを書いて見せる。


ンティアーディネーターの略で、ボラコです。子どもの『子』が付くわけではありません」

 俺の考えを読んだように香川さんは教えてくれた。


「一昔前までは女性の方が多かった気もするけど、最近は男性が多いよね、ボラコ。吉田さんも男性だったしねぇ」

 芝原先生は笑い、そして香川さんに言う。


「社協のボラコは、吉田さんだと思ってた」

「吉田は昨年定年を迎え、私はその後任です」

 香川さんは、相変わらず人好きのする笑顔を浮かべたまま答える。


「ほぁあ。定年かぁ、吉田さん。若く見えたなぁ」

 自分のことはさておき、芝原先生は大げさにそういって腕を組んだ。くすくすと香川さんは笑って「ですねぇ」と頷いている。


「さて。それじゃあ、そろそろ本題に入りますか」

 頃合いを見計らい、校長先生は一同を見回してそう告げた。芝原先生は腕を解き、再び座りなおす。ぎしり、と彼の尻の下でイスが鳴った。


「二年生の田部滉太たべこうた君の件で、今日は集まっていただきました」

 校長が名前を口にしただけで、胃の辺りに竹刀の「突き」でも喰らったかのような鈍い痛みと重みを感じる。


 俺の担当する生徒の一人だ。

 担当すると言っても、俺が実質受け持っている生徒は二人しかいない。


 そのうちの、彼は貴重な一人。

 ただ。

 4月に転校してきて以来、電話での会話のみで、一度も彼の顔を見たことが無いのだが。


「概要は……。どうかな。行橋ゆきはし先生から説明する?」

 校長に声をかけられ、反射的に顔を起こした。


 顔を起こした、ということは、知らずにうつむいていたのだと気づく。


「はい」

 咄嗟に返事をする。取り繕った感はいなめない。


 概要説明を。

 そう思って口を開いた。

 早く言わなくては。


 頭の中には入っている。

 田部滉太の住所、電話番号、家族構成。引越しの理由、不登校の経過、自分が行ってきた対応。

 ああ。そうだ、その前に注意事項を言わないと。個人情報の取り扱いの……。


 だけど。

 口を動かそうとした矢先に、下腹部に鈍い痛みが走った。ぐるり、と腸が蛇のように腹の中でのたうつ。


 同時に。


『先生は、どのようにお考えになっているのですか』

 鼓膜をなでたのは、田部の母親の声ではなく、佐藤の母親の声だった。


「……えっと」


 大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。


 そう心の中で言い聞かせるのに。

 ぎゅるぎゅると音を鳴らしそうな勢いで腸はうねり始め、俺は下腹を左手で押さえる。


『そんなことを聞いてるんじゃありません。先生は、どのようにお考えになっているかを聞いているんです』

 鼓膜をなでる佐藤の母親の声に、また冷や汗が出る。


「僕から説明しようか」

 さりげなく芝原先生に声を掛けられた。


 俺は首を捩じり、隣を見る。

 芝原先生は、俺を見ていない。

 自分のB5版の手帳を眺め、のんびりした声でもう一度俺に言った。


「概要は僕が説明して、そのあと、行橋先生に補足してもらおうかな。うん、それがいいよね」

 何気なさを装っての提案に、情けないことに安堵した。


「はい」

 素直に頷き、掠れた声に自分自身でがっかりした。


 声さえはっきり出せなくなったらしい。

 汗ばんだ左掌で下腹を押さえ、俺は右手のボールペンを力任せに握った。

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