第4話 俺は、ケース検討会議に参加する
「晴れてよかったですね」
先に立って歩くと、香川さんの声が追いかけてきた。
視線だけ後ろにやると、香川さんは来客用スリッパをぺたぺた鳴らしながら、廊下の窓を見ている。
「梅雨に入ったって数日前にニュースでやってましたから。雨が降ったらどうしようかなって思ってたんです」
「雨、ですか」
俺は儀礼的に尋ね返す。
「自転車で来たので」
視界の端っこに映る香川さんは、窓から俺に視線を戻し、やっぱりにっこり笑った。
「車じゃないんですか」
なんとなく意外でそう尋ねる。
「公用車を使ったら、また仕事場に戻らなきゃいけないでしょ?」
香川さんは少し唇を尖り気味にして返事する。
「自転車で来て、直帰しようと思って」
ということは、家はこの近所なのだろうか。「そうですね」。俺は、なにが「そう」なのかわからない言葉を口にし、前を向く。
校長室は、もう見えていた。
『誰にでも開かれた校長室』をモットーに、この部屋の扉も、職員室と同様に扉が開きっぱなしになっている。
開いた扉からは、聞きなれた校長の塩辛声と、すこし甲高い女性の声が漏れていた。
「失礼します」
扉の前に立ち、俺は声をかける。
「ああ。
執務机とは別の、会議用テーブルに校長はいた。
回転イスを滑らせて校長が立ち上がると、コマがフローリングを滑る耳障りな音が漏れる。
「香川さんも、遅い時間にありがとうございます」
当然だが、俺の為に校長は立ち上がったわけじゃない。俺の背後にいる香川さんを認めて、礼をするために立ったようだ。
「こちらこそ。お声かけいただき、ありがとうございます。
声がすぐ隣から聞こえてくるから、俺は視線を下す。
背後にいると思ったけれど、それでは背丈の関係で前が見えないのだろう。香川さんは隣に移動し、校長と、それから校長の向かいに座る女性にぺこりと頭を下げた。
能勢さん、と香川さんが呼んだ女性は、なんとも年齢不詳の女性だ。
黒いスーツを着こみ、髪の毛は短く切りそろえている。きっちりと施された崩れの無い化粧と、さりげないが高価そうな真珠のピアスをつけていた。派手には見えないが、金はかかっているように見える。多分、四十代前半だと感じた。落ち着いた雰囲気と、目が合うと、じっと心を覗かれたような揺るがない黒瞳がなんとなく彼女を近寄りがたく見せている。
「どうぞどうぞ」
校長は俺に目配せをしてそう言った。香川さんを席にお誘いしろ、ということなのだろう。俺は隣の彼女に、「あの」と声をかける。香川さんは、ぐい、と顎を上げ、大きな瞳で俺を見つめた。「はい」。彼女はそう返事をしただけなのに、不用意に心臓がぱくり、と鳴った。
「あの、どうぞ」
自分で言っておきながらさっきから意味が無い発言の連発に自己嫌悪だ。だが、香川さんは特に気にもせず、人懐っこそうな笑顔を浮かべて能勢さんの隣に腰掛けた。
「行橋先生も適当に座って」
校長に促され、俺は慌ててその向かいの席に移動した、その直後。
「遅くなりました」
そう言って、
「いやぁ、遅れてないよ。芝原先生。さぁさぁ、どうぞどうぞ」
校長先生がのんびりと応じ、芝原先生は俺の隣にどっかりと座る。
途端に。
もわり、と。
熱感と汗のにおいを感じた。
顔は机にむけたまま、視線だけ芝原先生に向ける。
芝原先生は、俺と同じく特別支援学級の教員だ。
ただ、体調不良のため校務分掌をいくつか免除されている俺とは違い、卓球部の部活動顧問もしている。ついでに言うなら、自ら選んで特別支援学級を担当されている。
俺とはなにもかも大違いだ。
五十にもうすぐ手が届くと言っていたが、そうは見えないほど若々しく、またがっしりとした体格の教員だ。この学校には去年まで車いすの生徒がおり、バリアフリー対応になっていない校舎部分の移動については、芝原先生が担いで生徒と車いすを移動させていたと聞いる。それも頷ける胸と背中の筋肉の張りだ。
多分、下校指導をしたあと急いで校長室に来たのだろう。こめかみの辺りには汗が滲んでいた。
「じゃあ、ケース検討会を始めますか」
校長はそう言って、一同を見回した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます