第3話 俺は今日、会議があるんだ

『まだ下校時刻まで数分あるから慌てるな』、『忘れ物はないのか? おいお前、陸上部だろ。スパイクどうした』、『走るな。転ぶぞ!』


 誰か。

 他の教員がそうやって声掛けをするだろう。指導するに違いない。


 その方が。

 きっと生徒たちのためになる。


 気づけば俺はうつむいていた。

 リノリウムの廊下の床を眺め、ゆっくりと校長室に向かう。


 俺は今日、会議があるんだ。

 そう、自分に言い聞かせる。


 下校時刻の18時ちょうどに、校長室で会議がある。それに参加しなくては。


 だから。

 俺がいま、しようと思っていたことは、他の誰かがやるだろう。


 ぱすり、ぱすり、とクロックスで床を蹴りながら、俺はできるだけダラダラと歩く。


 校長室に入ることも、会議に参加することも。

 あんまり意識して考えないようにしなくては。


 そうでないと、また腹をくだすからだ。

 さっきも、「今日会議がある」と思うだけで朝から何度便所に行ったことだろう。おまけに時間が近づくにつれ、またもよおし、便所に駆け込んだところだから、いまのところ痛みはあるが、切迫した便意はない。


 一番きついベルト穴を使って締めても、ぶかぶかなスラックスを眺め、俺が今日何度目かのため息をついた時だ。


 ぼすり、と。

 右側から何かがぶつかってきて、よろめいた。


 左側に向かってたたらを踏み、慌てて体を立て直して転倒を防いだ時だ。


「すみません!」

 張りのある声がすぐ側で聞こえた。


「だ、だだ大丈夫ですか?」

 右腕を掴まれ、どもりながらそう尋ねられる。首をねじり、その声の主を見た。


「前を見てなくて……。すみませんでした」

 そう言って、俺の右手首を掴んで頭を下げるのは、見たことのない女性だった。


 年は俺より少し下だろうか。

 紺色のポロシャツに、ベージュのチノパンを穿いた小柄な女性だ。髪を後ろでお団子にしているせいで、落ち着いた印象に見える。肩からたすき掛けにしたポストマンバックが不釣り合いなほどに大きかった。


 あまりにも、じろじろと見過ぎたのだろうか。

 女性がじっと俺の目を見返す。

 射すくめるようなその視線に、俺は慌てて姿勢を正し、小さく顎を引いた。


「俺も下を向いて歩いていたので」

 そう口にすると、女性はにこりと笑ってもう一度、「大丈夫ですか?」と尋ねてきた。


 俺の口から、乾いた笑い声が小さく漏れる。


 こんな。

 俺の肩にも満たない女性に心配されるようになったとは。


「あなたは?」

 大丈夫ですか。そういう意味で尋ねたのだが、彼女は、「誰ですか」という意味にとらえたらしい。


 俺を掴む手を離し、姿勢正しく「気を付け」の体勢を取った。

 ポストマンバックを、ぐりん、と背中側に回し、彼女は俺を見上げる。


「せんと町社会福祉協議会から参りました、ボランティアコーディネーターの香川奏良かがわそらと申します」


 聞き取りやすい、溌剌とした声で彼女は自己紹介をした。

 せんと町社会福祉協議会。

 心の中で繰り返す。たしか、今日の会議に参加する外部からの人間の一人だ。


 どうりで。

 俺は彼女が来たであろう廊下を眺める。


 入校手続きを事務室で行い、校長室に向かうために彼女はここまで真っ直ぐ歩いてきたのだろう。

 そして、職員室からつながる、十字路になったこの廊下で、俺と彼女はぶつかったらしい。


行橋ゆきはしです」

 都合上、俺もそう名乗り、頭を下げた。「ゆきはし」。香川と名乗ったその女性は小さく呟くと、目を細めて、にぱり、と笑う。


「今日、会議に参加される先生ですよね。よかった。校長室が判らなくて」

 そう言う彼女の左手には、今日の会議の案内文が握られている。なるほど。彼女はその文書に目を落としながら歩いていて、俺に気づかなかったらしい。


「ご案内します」

 俺が手のひらを上にして、廊下を指し示すと、彼女はぺこりと頭を下げた。

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