第2話 結局俺は、足を止めた

 俺は便所から出ようとして、手が濡れていることを思い出した。スラックスのポケットからハンカチを取り出し、手を拭う。

 何度も何度も便所に入るものだから、ハンカチは常時湿気ていて快適とは言い難い。


 扉付近の壁にはめ込まれている片切りスイッチを押して照明を落とすと、スイングドアになっている扉を肩で押し開けた。


 扉に肩があたった瞬間、こつり、と音がする。シャツ越しに、皮膚を押し上げるようにして見えている肩骨に当たったらしい。昔ならこんなことなかった。身体全体からごっそりと脂肪や肉が削げ落ちた。


 半年以上運動をしなければ筋肉なんて簡単に消えてなくなるんだな、とどこか他人事のように感じながら廊下に出た。


 外界。

 ふと、そんな単語が頭に浮かぶ。

 俺は首を左に向ける。そこにあるのは職員室だ。


 開け放した扉からわずかに見える室内に、教員の姿はない。


 完全下校10分前。皆、下校指導の為、正門に移動したのだろう。開け放った廊下の窓からは、グランドにいる生徒たちの雑多な声が聞こえてきた。


「一年っ、整備が遅い! 間に合わないぞ!」、「はいっ」、「やばい、今日塾だしっ」、「腹減ったー」。


 そんな賑やかな声が、やけに懐かしい。

 特に「腹減ったー」という男子生徒の声に頬が緩んだ。

 俺自身、中学時代は常に腹を空かせていた。体育の授業が終われば腹が鳴るし、部活が終われば空腹で倒れそうだった。


 何を食べても美味かったし、まず、嫌いな食べ物が無かった。今、こんな状態になっても二次障害を起こさず、入院もせずに過ごせているのは、学生時代に母が用意してくれる食事のお蔭だと思っている。母は手作りにこだわり、腹を空かせて帰ってくる俺の為に、いつも栄養バランスを考えた食事を用意してくれていた。あの食事を摂って体を作ったから、この状態になっても持ちこたえているのだと、いまでは感謝している。


「早く正門でないと! カウントダウン、始まるよ!」

「うそ、もうそんな時間!?」


 女子生徒たちの焦ったような声が聞こえてきた。下校時刻を過ぎて正門を出ると、その部活動はペナルティーを科せられるのだ。俺は自分の腕時計を見る。


 まだ、8分ほど余裕がある。

 「大丈夫だよ」と声をかけてやろうか。

 そう思って職員室に足を向けた。


 校舎壁面に取り付けられた大型時計は、数か月前から止まっている。

 中学校内ではスマホや個人所有のタブレット端末の使用は禁止されている。そのせいで腕時計をしてない生徒はチャイム以外に時間の目測がつかないのだろう。


 グランドに面した窓から顔を出し、「間に合うから、急がなくてもいい」。そう言ってやろうと思った。


 俺が顧問をしていた剣道部では、道着から制服に着替えるため他の部よりも時間を食うが、グランドの部活は着替えも簡単だ。それよりも慌てて行動をし、うっかり忘れ物をしたり、転倒してケガをする方が心配だった。


 だけど。

 右足、左足、右足、と出して。


 次の左足が出なかった。


 さっきの。

 鏡に映った自分の顔を思い出したからだ。


 あんな。

 あんな不気味な顔で生徒に。ましてや女子生徒に声をかけたら、怖がらせるんじゃないだろうか。


 おまけに。

 俺は自嘲気味に笑った。


 いまは、クラス担任でもなんでもない。副担任ですらない。


 そんな教員を。

 生徒の誰が覚えている、というのか。


『怪しい人が職員室から、私たちに声をかけてきました』


 不安げに、他の教員にそう語る女子生徒の姿が想像でき、『あれは特別支援学級の行橋ゆきはし先生じゃないか』と焦って説明する同僚の姿がやけにリアルに脳裏に浮かんだ。


 結局。

 俺は足を止め、職員室に背を向けた。


 誰か。

 他の教員が言うだろう。


 それは、俺に与えられた役割ではない。


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