一章
行橋教諭と香川ボラコは出会う
第1話 せめて、『笑え』と俺は命じる
洗面所の蛇口ハンドルを回してしめる。
水音が途絶えた。
途端に、薄く尿臭の漂う職員用便所は深海にいるように静かになる。
しんと冷えて薄暗く、時折天井の蛍光灯が、じぃ、っと鳴る以外、音もなければ変化もない。
俺なんて、ずっとここにいたほうがいい気がする。
この便所の。
薄闇の中でひっそりと、じっと息を潜めて立ってればいい。
チャイムが鳴ろうが、下校時刻を過ぎようが、ずっとこの空間にいればいい。
それが誰にとっても無害だ。
だけど、と力なく息を吐く。現実的にそんなことできやしない。
首を振って堂々巡りの思考を追いやる。
視線をゆっくりと扉に向けた。
その向こう側に広がるのは、廊下であり、橙色に染まった空気であり、生徒たちの陽気な声が溢れる校内だ。
今、俺がいるような。
暗く、静かで、湿気た場所じゃない。
本来、俺は。
扉のあちら側にいたのだ。
自分で望んで、楽しんで。
生徒に囲まれ、同僚と談笑し、保護者とは部活動の話題で盛り上がった。涙が出るほど笑ったり、生徒に負けないぐらい馬鹿なことをやったり。
それが、俺の日常だったはずだ。
大きく深く息を吐き、洗面所の陶磁のボールに手を突いた。曇ってわずかにぼやける鏡を覗き込む。
鏡の向こうにいるのは、目の下にくまができ、頬のこけた青白い顔の男だった。
俺の知っている”
昼休みには生徒と毎日グランドで遊んでいたから顔は日に焼け、『自分たちより肌が黒い』と生徒にからかわれるほどだった。
中学時代から続けてきた剣道のお蔭で、顎から首にかけてと、二の腕には立派な筋肉が張っていた。肘から手首にかけての筋肉も盛り、生徒が興味本位で触りに来るほどだった。
顔だってそうだ。
いつだって、口唇は自然に弓なりに上がっていた。
目元もそうだ。生徒が声をかけやすいよう、いつも穏やかにしているつもりだった。
だが。
今、この鏡に映る男の風采の上がらなさはなんだ。
白目の部分は充血して濁り、口唇は乾燥して皮が破けている。
あれから何キロ体重が落ちただろう。げっそりとへこんだ頬もかさかさで、油分もない。
笑え。
自分にそう言う。
せめて、笑え。
再度自分にそう告げ、口の両端を意識して引き上げて見た。
だけど。
そこに映っているのは以前の俺じゃない。
痩せこけて顔色の悪い男が、だた不気味に笑顔を作ってみせただけだった。
かさり、と。
顔の表情を動かすと、乾燥した肌がもろく崩れそうな突っ張り感を覚え、笑うのを止めた。やっぱり無気力に囚われる。
洗面ボールから手を離し、意識して体を伸ばす。
背の辺りに鈍い凝りがあり、頭の芯には眩暈が残った。
栄養不足と水分不足だ。
分かっている。
分かっているが。
俺は、三度目のため息を吐いた。
喰えば、出る。
過敏性腸症候群になってからというもの、口から何か入れれば、すぐに胃や腸がそれを排出しようとする。
せめて一食はしっかり食おうとおもうのだが、喰えば授業どころではなくなってしまう。腸の中のものが無くなるまで、ずっと便所に籠っておかなければならなくなってしまう。
それどころか。
学校にまで、たどり着けない。
それまでは電車で学校に通っていたが、電車に乗っている最中に何度か切迫した便意に襲われて下着を汚し、結果遅刻するという醜態を繰り返した結果、車通勤に変えた。
車なんて持っていなかったから、購入した当初は当時、
外出のたび。デートのたび。会うたび。
酷い時は一時間ごとに、トイレのためだけに、コンビニに駐車する俺に嫌気がさしたらしい。
ある日、連絡が取れなくなった。
どうやらフラれたらしいと気づいたのは、何通送ってもLINEが既読にならなくなってからだ。
大学一年生から付き合っていたから、結婚も見据えていたのだけど、正直、フラれたと気づいた時は、落ち込むよりもほっとした。
その時は休職していたこともあり、今後の復帰目途や、日々の生活だけで手いっぱいなのに、沙織の仕事の愚痴や自慢話を聞いてやれる余裕は全くなかった。
共通の友人には、「
沙織が離れていってくれて、一人の時間が増えて。
ゆっくり過ごせるようになった、と思う方が先だった。
こんな風に思ってしまうのであれば、きっと結婚しても先が見えていただろう。
それに。
俺は鏡に映る自分を見て肩をすくめた。
こんな幽鬼みたいな男は、俺が沙織の立場だったら願い下げだ。
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