十一幕ニ(完)







 ――そのあとの話を、少ししよう。


 初の皇立学校は、無事二校とも完成した。

 名だたる講師陣と恵まれた教育環境の元には、熱意ある生徒たちが集まり、瞬く間に二校とも国内屈指の名門校へと成長を遂げた。

 同校は後年に渡り、優れた文化人を輩出し続けることとなる。

 この二つの学校の初代校長に就任した蓮だったが、その枠に収まらず、彼はあらゆる創作活動の支援、また若き芸術家たちの育成などを積極的に行った。

 そのおかげで、以前は金持ちの道楽としか捉えられていなかった「芸術」が、徐々に市井の人々にも理解されるようになっていった。

 心を震わせる何かを創り出し、鑑賞することは、決して贅沢なことでも、特別なことでもない。

 世の中が美しいもので満ち溢れ、皆の内面が豊かになればいい。

 それが蓮の望む、皇国の姿だった。

 蓮は私財を投げ打ってこれらの行動を起こしたが、晩年の彼の資産は、なぜか元の倍に増えていたという。

 この不思議な現象は、皇立高等学問所経営学部の初代卒業生であった彼の妻、雪樹が、極秘裏にいくつもの会社を経営していたという噂と、何か関係があるのかもしれない。


 さて、蓮の努力は実を結び、この時代、霧椿皇国の文化や芸術は急速に発展、習熟期を迎えた。その結果生み出された多くの作品群や技術は、交易において高値で取り引きされるようになった。

 資源もほどほどにしか湧いておらず、これといった生産物もないこの国にとって、蓮の育てたそれらは、以降貴重な輸出品として、莫大な富をもたらすことになる。

 また、独自の進化を遂げ、他の追随を許さない品質と感性を兼ね備えた霧椿皇国のアート全般は、現在でも世界のカルチャーの牽引役だ。


 ところで蓮は、エロ、グロ、ナンセンスといった、あまり一般ウケのよろしくない作品についても、「欲望や悪意といった人間の負の部分を、余すことなく描いた傑作」として、厚く保護した。

 そして――彼の目は、やはり肥えていたというべきか。

 皆が眉をひそめたそれらの絵画、小説、演劇、そしてその作者たちは、時代が変わってから、高く評価された。

 これらのことは伝説となり、蓮は後世の人々に、親しみを込めて、「HENTAI皇」と称されることになるのだった……。


 皇宮の面々は、最後まで変わらなかった。宮で働く者たちは、蓮の出生について黙して語らず、忠義を貫いている。

 後宮がなくなり、時間ができた清田 真百合は、雪樹の主治医を勤めながらも、もっと女性たちに自分自身の体について知ってもらおうと、皇国中を精力的に説いて回った。

 その甲斐あって、望まぬ妊娠は減り、または安全な出産体制を整える地域も増えて、幸せになった女性は多いという。

 珀桜皇太后も元気に、己の不幸に酔い続けたようだ。

 彼女の半生を、だいぶ美化して描いた芝居が上演され、大ヒットしたことも有名である。

 その件については、不敬であると非難する者も多いが、当の皇太后はまんざらではない様子だったという。

 羽村 芭蕉は娘が嫁いだのちも、議会制民主主義の確立に尽力したが、その十年後、健康上の理由で政界を去った。

 彼のあとは息子が継いだが、最高議会は急激に求心力を失い、時を置かず解散した。以後は同じような団体がいくつも作られ、分裂や合併を繰り返した。

 皇国の政治は、三歩進んで二歩下がっているような状態である。

 それでも、戦の火の消えた平和な世で、民衆もまあまあ豊かであるから、なんとかなっているようだ。

 霧椿皇国の民に、「偉大な政治家の名を上げよ」と問うても戸惑うだろうが、「偉大な皇の御名を述べよ」と尋ねれば、香蓮皇の名を上げる者は多いだろう。

 自らの存在価値について、青年期に大いに悩んだ蓮は、その功績をもって、人々の心に名を残したのである。





 異国の暦では二○一八年に当たる今日(こんにち)、蓮は雪樹と同じ墓の下で眠っている。

 四人の子をもうけ、老いても尚睦まじかった妻の手を握り、彼は今も皇国の人々の幸せを祈っているはずだ。


 ――これはそんな、椿の国の皇のはなしである。



~ 終 ~





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椿の国の皇のはなし いぬがみクロ @inugamikuro

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