第十一幕 大団円(完)
十一幕一
宮殿内に用意された控え室で、ようやく一人になって、雪樹はほっと息をついた。先ほどまで入れ代わり立ち代わり、侍女たちに散々世話をやかれ、疲れてしまった。
――まあ一人じゃ、とてもこんなの着れないけどね。
丸椅子にちょこんと腰掛けた雪樹は、今、純白に染まっている。彼女が纏っているのは、いわゆる白無垢だ。
最高級の絹地で仕立てられたその衣装の表面には、白銀の糸で、霧椿皇国の象徴である椿が、大小様々に刺繍されている。また打ち掛けの裏地には、秋桜を思わせる薄紅色が使われており、年若い花嫁の愛らしさを際立たせていた。
馬子にも衣装というが、そのとおり。長時間に及ぶ着つけが終わったあと、自分の姿を鏡で確かめた雪樹は、少し自虐的に、だが素直に感動した。
今日の自分は、いつもよりだいぶマシなんじゃないか。ちょっとだけ、ちょっとだけ……美しいかもしれない。
雪樹は、愛用の金の髪飾りと生花でまとめられた長い髪を、崩れないよう、そっといじってみたりした。
――蓮様は、なんて言ってくれるかしら。
それが楽しみで、つい口元がだらしなく緩んでしまう。みっともないが、大目に見てもらってしかるべきだ。なぜなら本日は、雪樹の結婚式だからである。
意地悪で偏屈だけれど、真面目で、誰よりも優しい幼なじみの妻になる――。
ここまでくるのに紆余曲折あって苦労した雪樹に、だから浮かれるなと言っても、それは無理な話だ。
控え室の扉が叩かれた。雪樹が返事をすると、幾分歳を召した紳士が入ってくる。
顎鬚が立派で、立ち居振る舞いは気品高く、しかし眼光は鋭い。雪樹の父親である、羽村 芭蕉だ。
「お父様。お忙しい中、お越しいただき、ありがとうございます」
立ち上がろうとした雪樹を、芭蕉はやんわりと手で制した。
花嫁衣装を着込んだ娘は、重装備の兵士と同じである。動くだけで一苦労なのを、察してくれたのだろう。
「……おめでとう、雪樹」
娘の晴れ姿を前に、芭蕉は眩そうに目を細めた。
「ありがとうございます、お父様」
「お前とこうやって親しく話せるのも、これが最後なのだな……」
「そんなこと……。お父様は、お父様です。お嫁に行っても、それは変わりませんよ」
「それはどうだろうか。お前もきっと皇宮での暮らしに、染まってしまうのではないかね?」
「……………………」
芭蕉は皇の一族を快く思っていないから、裏切られた気になっているのだろうか。だからなのか父の言葉には、若干の棘が含まれていた。
しかし雪樹は、それに気づかないふりをする。
以前の彼女ならば、父の態度にいちいち突っかかっては責めて、諌められていたことだろう。
遠慮がないだけに、衝突も多かった。それが今は、他人を相手にするかのように、受け流すことができるようになっている。
思えば家族とは、距離が近すぎたのかもしれない。
だから親しくもなれるのだろうし、その逆だってある。
だがよく考えてみれば、彼らとは同じ血が流れているだけのことなのだ。
年齢だって性別だって違うのに、お互いを理解し、理解されたいと思っても、それはまた別の話である。
実際雪樹だって、父母や兄のことをどれだけ分かっていたかというと、ほんのわずかだった気がするのだから。
――私のことは、蓮様だけが分かってくれていれば、それでいいや。
多くを望むあまり、傷つけ合って、何になろう。
諦念のような達観のような、そんな心境の変化は、雪樹が成長した証でもある。娘とのわずかなやり取りでそれを悟った芭蕉は、寂しそうに微笑みながら、椅子に腰を下ろした。
「ところでお前、赤子はどうした?」
「さ、授かっていなかったようですね」
嘘は言っていない。言ってはいないが、心苦しくて、雪樹の目は泳いだ。
芭蕉が雪樹を取り返そうと、皇宮に挙兵してから、もう半年が経っている。
残念ながら、雪樹は妊娠していなかった。
そのせいで、だから、今すぐにでも結婚したい蓮と雪樹だったが、正式に結ばれるまでに、これだけの時がかかってしまったのだ。
霧椿皇国では、皇の后となれるのは、皇の子を産んだ女だけである。慣例どおりにするならば、雪樹も蓮の子を宿し、出産しなければ、皇后として認められないはずだった。しかし蓮はそれを良しとせず、制度そのものを変えるべく動き出したのだ。
「男と女が夫婦になるのは、子供を作るためだけではない」。
それは複雑な生い立ちを経験した蓮だからこそ、世に訴えたいことだったのだろう。
しかし今までになかった事例を、認めさせようというのだ。特に皇にとって、後継者の問題は重要である。
いざ結婚したものの、雪樹との間に子ができなければどうするのだと、関係者の反発は強く、説得するのに骨が折れた。
単純で面倒くさがりな雪樹などは、「だったら、とっとと子供を作りましょうよ」などと蓮に持ちかけ、「それでは意味がない!」と叱られたりもした。その結果、皇の婚姻にまつわる決まり事を変えるまで、子作りは厳禁とあいなったのである。
そんなわけで二人は、しばらく妊娠する余地のない、つまり、清らかで節度あるおつき合いをする羽目になった。
――いきなり人のことを襲ったくせに、今になって禁欲生活とか。順番が激しくおかしい……。
雪樹はどうにも釈然としなかったが、蓮は一度決めたらなかなか意志を変えない人だから、しょうがないと諦めるほかなかった。
そしてこの一連の騒動は、最後は蓮の「雪樹と添い遂げられないのなら、一生独身でいる!」という半ば脅しのような申し出により、幕引きとなった。
周囲が根負けした形で、遂に二人の結婚は許されたのである。
羽村親子の久々の会話は、和やかに続いた。
父は実家の近況を語り、娘は懐かしく頷く。
話題が途切れると、雪樹は芭蕉の顔を正面から見据えた。
「お父様。私は蓮様の妻として、あの人を支えていきます」
――そのためなら、あなたの敵となることも厭わない。
最高議会は皇の力を更に削ごうと、その財産を、手を変え品を変え、奪い取ろうとしている。その件については、雪樹が今後、目を光らせるつもりだ。
皇は支配者としての復権など、狙ってはいない。だが運命を狂わされ、玉座に縛りつけられた蓮を、これ以上惨めな立場にしたくはなかった。
皇をないがしろにする存在とは、戦う。そして皇宮という檻の中でも堂々と、蓮には好きなことをして、輝いて欲しい。
親子の視線がぶつかる。二人は既に父と娘ではなかった。
野心ある政治家と皇の后。そしてその戦いは、もう始まっているのだ。
やがて芭蕉から先に目を逸すと、彼はポツリとつぶやいた。
「なぜ、こんなことになったのだろうな……」
恐らく芭蕉は、子供たちの中でも最後に生まれた娘を、一番に愛していたのだろう。できるならばいつまでも手元に置き、自分の作った家族という殻の内に留めておきたかったはずだ。
だが雪樹には、それが息苦しかった。自分のやりたいことをやって、好きなように生きていきたかった。
そんな彼女は、家族の外に居場所を見つけた。蓮の隣である。
まだまだ未熟だが、蓮を支える、守る。愛しているから、二人で生きていく。そのための苦労ならば喜んでする。試練だって乗り越えていく。
不思議なものだ。芭蕉が囲った檻を越えて、雪樹は皇后という力ある者の座に就くことになった。彼女はこれから、父にも兄にも成し得なかったことを、やろうとしているのだ。
支配者でもなく、征服者でもなく、玉座に繋がれた奴隷でもない、そんな新しい皇を作ろうとしている――。
「これまで育てていただき、ありがとうございました。お父様」
雪樹が頭を下げると、彼女の髪に挿された椿の髪飾りが揺れた。
「自分の決めたことだ。しっかりやりなさい……」
芭蕉は娘の別れの挨拶を、瞼を閉じ噛み締めると、やがて静かに部屋を出て行った。
入れ違うようにして、ほどなく蓮が現れた。
今日は彼も正装である。漆黒の束帯姿で、いつもより大きな冠をかぶっている。
「かっこいい……!」
「綺麗だな」
同時に相手を褒め合って、恥ずかしくなったのか、二人はそっぽを向いた。
「あー……。なんだ、その、あともう少しで、神宮の準備ができるそうだ」
「そ、そうですか」
神宮は皇宮内にある、儀式の間だ。祀られている神様や皇のご先祖様の前で、婚姻を誓い、認めてもらうのだ。
「それにしても、いい着物だな。ここはどうなってるんだ? 帯はどう締めた? この椿の刺繍は、礼柊皇の婚儀のときと同じだな。書物には載っていたが、実際に見るのは初めてだ。ふんふん、なるほど」
美しいものには何にでも興味を持つのが、蓮という男である。
蓮は雪樹の周りを忙しなくくるくる回り、観察を始めた。雪樹は呆れながらも、したいようにさせてやった。
もうじき彼の好奇心と知的欲求を、満足させられるはずだ。数ヶ月後には、二つの学校が竣工する。
一方は高等学問所で、もう一方は皇国初の芸術学校だ。
どちらにも一流の講師を招くことが決まっており、また学ぶ側も実力と意欲があれば、年齢、家柄、性別問わず誰でも通えるように、奨学金など様々な仕組みを設ける予定である。
もちろん雪樹も、生徒としてこっそり通うつもりだ。皇后となるからには、もっと教養を身につけねばならない。蓮を守るためにも。
知識とは、すなわち、力なのだ。
意気込む雪樹の前に、影が差す。きょとんとしていると、唇を優しく塞がれた。
「んっ……」
「少し、口紅が濃い。お前には、薄い色のほうが似合う」
蓮が囁き、再び口づける。雪樹は瞼を閉じた。
「ようやくこの日が来たな。とっとと万事終わらせて、この窮屈な服を脱ぎたい」
雪樹から離れると、蓮は詰め襟を指で広げ、うんざりとそう言った。
丁度、使用人が呼びに来た。どうやら神宮の支度が終わったようだ。
蓮が差し出した手につかまって、雪樹は床に立った。
「雪樹」
「はい」
名を呼ばれて見上げると、蓮の表情は翳っている。
こんな幸せな日にどうしたのかと、雪樹が訝っていると、蓮は重たそうに口を開いた。
「初めてお前を抱いたときのこと……。すまなかった」
そして、深々と頭を下げる。
蓮に謝られるなんて、初めてのことだ。昔からどんなひどいイタズラをしても、ごめんの一言もなかったのに。雪樹は呆気にとられた。
国の長である皇は、むやみに謝罪してはならぬと、蓮は育てられたそうだ。
そういった事情も分からないではないが、それでも――雪樹はずっと彼に詫びて欲しかった。
――だって痛かったし、恥ずかしかったし、怖かった。
実際に謝られてみて、雪樹は心の片隅にくすぶっていたわだかまりが、サッと霧散していくのを感じた。
――もしかしたらこの人は、ずっとこれが言いたかったのかな。
優しい人だから、きっと。そう思うと、逆に可哀想になってしまう。
「許してあげます! だから、これでもう私たちは対等です!」
傷つけた者、傷ついた者、もうそういった関係は嫌だった。ただ純粋に、蓮を好きになりたい。愛していたい。
しかし対等などと、言葉が過ぎただろうか。皇に対し、こちらはたかだか一貴族の娘である。身分が違うと、怒られるかもしれない。
だが蓮は、嬉しそうに笑っている。
「そうだな。俺たちは、同じところに立っている。――ありがとう」
もうじき夫となる蓮の笑顔は晴れやかだったが、しかし、雪樹は泣きたくなった。
――この人は、自分と同じ場所に来て、寄り添ってくれる人を、ずっとずっと探していたんだ。
だから、雪樹を、力づくで引きずり込んだ。
だけど、後悔して、消えようとした。
――どこまでもバカで、勝手で、不器用な人。
散々ひどい目に遭って、苦労して。たったひとりで、寂しいのに。
それなのに、誰も恨まず、耐えて。
――そんなあなただから、ほっとけない。だから、だから――。
雪樹は唇を噛んだ。胸が痛く、熱い。
――例え檻の中でも、私たちは絶対に、幸せになってやる!
「行きましょう!」
雪樹は蓮の手を取って歩き出すが、踵の高い草履は歩きづらく、あっという間によろめく。そんな花嫁を軽々と引っ張り上げ、蓮はいつもの調子でからかった。
「なにやってるんだ。どんくさい」
「だって歩きづらいし、この服、すっごく重たいんですからね!」
「だったら、ゆっくり歩けばいいだろう」
「……はい」
納得した様子の雪樹と、蓮は手を繋ぎ直し、二人は神宮までの道のりをのんびりと歩いた。
某年某月某日。天気は快晴。
この日、澄花志乃香蓮皇と羽村 雪樹の結婚の儀が、つつがなく執り行われた。
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