気がついた時には、もう日付が変わっていた!


 我ながら、ものすごい集中力だ。おかげで、リストアップしていた内容は、ずいぶんと仕上がってきた。

 唯一うっかりしたのは、潤子おばちゃんへのヒアリングが出来なかったことだ。守山家の人間は全員、だいたい十時までには寝てしまうのだ。

 きびだんごの件とかは、いちおう事前に打ち合わせておくべきだろう。明日以降に持ち越しだ。

 そういえば、夕食もお風呂も忘れていた。

 途中でお母さんが差し入れてくれていた冷やし中華を、今さら食べてみる。ぬるいし麺もブヨブヨだが、それでも美味しい。何かを頑張りきった時には、そのぶんだけ何かが美味しくなるものだ。

 満腹の眠気に襲われる前に、お風呂を済ませておくべきだろう。お父さんともガチで話してみたいところだが、何しろ自分は忙しい。欲張らないことにした。

 脱衣所に入ると、脱ぐ前にまず、バスルーム内を確認する。

 ほら、やっぱり、だ。

 ほんのわずかだが、小窓が開きっぱなしになっている。

 もちろん、お父さんだ。カビが嫌いなのは同感だが、年頃の娘の気持ちも考えてほしい。うっかり全裸で飛び込んで、近所の変態にでも見られてしまったらどうするのか? それこそ、その痴漢を鬼に引きちぎってもらわないと、納得がいかない。

 小窓を閉めてしまおうと、身を乗り出した時だ。

 その隙間の先に、守山家の縁側が覗いていた。

 こんな真夜中なのに、まだ明かりがついている。それどころか、縁側にひとり、腰を下ろしている姿が見える。

 間違いない。桃彦だ。


「――何やってんの、こんな時間に」

 

 さすがの桃子も、夜中に大声を上げるほど非常識ではない。

 ちゃんと桃彦の傍まで歩み寄ってから、そっと声を掛けた。

「……ああ、モコちゃんか」

「何よ、その、残念そうな言い方」

「そんなことないって」

 決して、美男子ではない。

 それなのに、たしかに桃彦の笑顔には、胸の奥を掴まれる何かがある。あの矢賀莉子が見つけてしまったのも、分からなくはない。

「桃が入ってるから、ぜんぜん眠くなくってさ。じいちゃんの言ってたみたいに、鬼を退治するまでは、ほんとに眠れないのかもしれない」

 そう決めつけるには早い気もするが、本当なら怖すぎる。いよいよガンギマリの世界だ。さっき作ったスケジュールも、再調整が必要だろう。

 隣に座るなり、桃彦が顔を向けてきた。

「今日はありがとね、色々と」

 珍しい。真正面からそう言われると、何か調子が狂ってしまう。

「ほんとだって。こっちは、この時間まで、いろいろ調べものしてたんだから」

「へー、どんなことを?」

「家来とか、服装とか、食料とか。他にもいろいろ」

「そっかー。ありがとね、ほんとに」

 そう言いながらも、桃彦はずっと、胸の前に手のひらを集めている。ちょうど、水を両手ですくって飲もうとしているような、そんな手つきだ。

「……何やってんの、その手つき?」

「あ……、うん……、明日の朝、誰よりも最初に、モコちゃんに話そうと思ってたんだけど……」

 やたらともったいぶるので、たまらず手の中を覗き込む。

「ん……、何も入ってないじゃん。……って、……あ、何これ、アリちゃん?」

 黒ゴマのような小さなその点は、どうやらアリに間違いない。

「うん。アリはアリなんだけど、こいつは特別でさ……」

 ……ま、まさか!?

 湧きおこった胸騒ぎが、桃子の全身に拡がっていく。

 ウソだ、ウソだ、ウソだ、ウソだ、いくら桃彦がおバカさんでも、そんなことするなんてあるわけ……。


「こいつが、阿僧祇」


 言っちゃった……。

 真横で、真顔で、そう言い放ったのだ、今たしかに。

 守山家の、八十年に一度の伝統行事――しかも、命がけなのだ。身体に桃が入っただけでも、鼻血が出るし、筋肉が張る。三日三晩は眠れなくなるし、下手したら鬼に引きちぎられる。

 それなのに、この男は!

 三分の一の大切な枠を、よりにもよって、アリなんかに!

「……それって、もう、間違いないの?」

 なるべく冷静に、そう訊いてみる。

「うん、間違いない。……ほら、ちょっと見てみて」

 全く気乗りしないが、促されるままに手のひらを覗き込む。

 どこからどう見ても、やはりただのアリだ。桃彦の左の手のひらの、ちょうど真ん中あたりでじっとしている。

「阿僧祇どの。薬の指を進みたまえ」

 小声だが、相変わらず芝居ががっている。

 しばらく見つめていても、アリはさっぱり動かない。さすがに皮肉の一つでも言ってやりたくなる。

「……ほら、阿僧祇。……お願いだから、ね、薬指に」

 桃彦の小声が、どんどん大きくなっていく。それでも手のひらを水平に保っているのは、フェアプレイといえるだろう。

「……お願い、阿僧祇。一生のお願いだから」

 一生のお願い!

 あまりにも早すぎるし、安すぎる。しかもアリ相手にしちゃうなんて。

 と、桃子が心の中で毒づいている時だった。


「……ほら、見てよ、モコちゃん」


 たしかに、桃子も見た。

 その黒いアリは、桃彦の左手の薬指を、指先に向かって真っすぐに進んでいた。

 そして指先に辿りつくと、その場でクルリと回ってみせた。

 悪い夢を見ている気分だった。

「……ね、分かったでしょ。これが、阿僧祇」

 そう言われても、返す言葉が見つからない。辛うじて、サポート役としての使命感が、桃子にそれを訊かせた。

「どうして、アリだったの?」

 納得できる答えを求めているわけでもない。すでに敗北感に包まれていた。

「いや……、別に、アリを選んだわけじゃなくてね……。こいつがさっき、縁側に上ってきててさ。指先を近づけたら、そのまま指に上ってきたんだ……」

 ありえない。いよいよ悪い夢に呑まれていく。

「こういうのも、縁じゃないかと思ってさ。……ほら、モコちゃんも可愛さ重視とか言ってたよね? それに近い発想かな」

 全然違うし、あれはあくまで、空想だけを楽しんだものだ。

「もういい、うん、もういい。終わったこと。それ以上聞いてたら、こっちもおかしくなっちゃいそうだから」

 何とか気持ちを立て直して、桃彦を諭しにかかる。

「いい? 阿僧祇はもういいから。あとの二人は、もうダメよ。明日、動物園に行くまで待って。お願いだから」

 かなり優しく言ったつもりなのに、桃彦は頷かない。それどころか、目を逸らしてしまった。

「ちょっと、何? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」

 逸らした視線の先に回り込む。

 観念したのか、桃彦はほとんど独り言のように漏らした。

「ぼくのこっちの肩、見て……」

 となると左肩だろう。ちょうど回り込んでいた桃子の、視線の真正面だ。

 

 ……いた。


 着ているシャツも白いので、分かりにくい。

 それでも、ぽつんと乗っていた。

 ナメクジだ。


「こいつが、那由多」


 ありえない!

 もう、貴重な二枠を失ってしまった!

 本当なら、ドーベルマンとカラスだったかもしれないのに。アリとナメクジになってしまった。

 正気を保つために、桃子は思考停止モードに入る。

「うん、オッケー、もう終わったこと。阿僧祇と那由多は終わり。で、恒河沙だけは動物園の後でね。じゃ、アタシはもう寝るよ。朝からバイトの面接もあるし……」

「……ぅん、……ぉゃすみ」

 やけに声が小さい。小さすぎる。

 立ち去ろうとしたものの、もう一度だけ桃彦の顔を覗き込む。

「……ねぇ、アンタ。ひょっとして、ひょっとしないよね?」

「……って、どぅぃぅこと?」

「いい? 恒河沙だけは、動物園の後よ、絶対に!」

「……ごめん」

 は?

 きっと聞き間違いだろう。

「ごめん、モコちゃん。いろいろ考えてくれてたのに……」

 いや、聞き間違いだ。絶対にありえない。聞きたくない。

「恒河沙も、もう……っていうか、いちばん最初に呼んだのが、恒河沙だったんだけど……」

 全身の力が抜けていく。ひとまずその場にしゃがみ込んだ。

「……で、どこにいるの、恒河沙は?」

 認めたつもりもなかったが、桃彦の表情が一気に晴れた。

「うん! 呼ぶから、モコちゃんは動かないでね」


「……恒河沙どの、至急、こちらに戻られたし!」


 庭に向いている桃彦の視線を、同じように追ってみる。

 しゃがんでいるぶん、桃子のほうがはるかに視線は低い。たとえ小型犬であっても、それなりの迫力は感じるだろう。

 とはいえ、狭い庭だ。

 どうやら犬猫の存在は見当たらない。


「――あ、来たよ、モコちゃん。恒河沙が」


 桃彦の声が弾んだ。

 その視線の先に、たしかに、いる。

 思いのほか小さすぎるが、その動きは素早い。駆けるというより、這っている。茶褐色の胴体が、月明かりに照らされて輝いている。

 一直線に向かってくるそれに、桃子は思わず悲鳴を上げた。



 

 

 



 






 

 

 

 

 

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桃を継ぐもの 上野雑庵 @uenozouan

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