第89話 真実 1

「なあ、市花、どこまでいくんだ?」


 先を歩く市花に声をかける。


 彼女は足を止めるとふり向いた。

 緑色カーキのワンピースが揺れる。

 そして言った。


「もうちょっと、この先です」


 その表情は、どこか寂しげだった。




 日曜日、五月の割には気温の高い日、市花に連れられてきたのは、知らない街。

 いつもの駅で待ち合わせた後、名古屋方面に向かう電車に乗って、三つ隣の駅で降りた。


 そこには既に、菊理が待っていた。


 彼女は、長袖で大きめのTシャツに短パン、いかにも元気そうな格好ではあるが、彼女の様子は今日も儚げである。


 虎の姿を確認すると彼女は意外そうな顔をした。




「少し歩きます。ついてきてくださいね」



 挨拶を交わすと、有無を言わさずそれだけ言って市花が先頭に立つ。

 他の二人は、頷き、ただ従うしかなかった。


 そう、今日は、菊理以外のキョウケンは、市花と虎の二人だけ。


 あの日、菊理が心中について話した後に市花が発した意外な一言。

 その場にいた者は皆、興味を隠しきれない様子ではあったが、市花が、心当たりの場所には菊理と二人で行ってくる、と珍しく他の者の同行を拒否した。


 他ならぬキョウケンの仲間達である、意味があるのだろうと察し、それ以上に踏み込むものはいなかった。

 虎も、後で市花からの報告を待つつもりであったのだが……。



「秋山くん、日曜日空いていますか? 空いてますよね?」


「そんなに人を暇人みたいに言わなくても……そりゃ空いてるけど」


「では、いつもの場所に午後一時集合です! あ、直にはナイショにしておいてくださいね、言ったら絶交です」


 昨日いきなりこんな電話が掛かってきたのだ。

 そして、こちらが、イエス・ノーを答える間も無く切られてしまったので、もう来るしかなかった。



「ここです」


 とある家の前で、市花は立ち止まった。

 表札には、長尾ながおと書いてある。



「市花、ここは……?」


「ああ、そうだ。二人は、私の友達、ですからね」


 言い聞かせるようにして、呼び鈴を鳴らす。

 質問には答えてくれないようだ。


 少し待っていると、ドアが開いて、そこから女性の顔がのぞいた。

 Tシャツにジーンズ、ラフな格好。

 年はうちの母親くらいだろうか。

 どことなく、市花に似ている気がする。



「おひさしぶりです、綾さん」


「市花ちゃん、いらっしゃい。お友達も一緒ね、上がって上がって。今日は私ひとりだから、騒いでも大丈夫よ」


「では、お言葉に甘えまして。上がらせていただきましょう、秋山くん、菊理さん、……菊理さん?」



 菊理が後ろで固まっている。



「どうした? 菊理? 恥ずかしいのか?」


「あ、いえ、なんでもありません。ごめんなさい……」


 不思議に思いつつも、彼女も動き出したので、市花の後に続いて、お邪魔した。

 今日は何かと確認するタイミングが悪いらしい。



 玄関から廊下を少しいったところの、ソファーとテレビが置かれた応接間のようなところに案内された。

 壁面には、本棚が設えられており、難しい漢字の書かれた歴史の本がたくさん並んでいる。



「オレンジジュースとアイスコーヒーと冷たいお茶のどれがいいかしら?」


「では、私はお茶を」


 自分はコーヒーを希望した。

 菊理はオレンジジュース。


 全員種類は違ったが、主は嬉しそうに、冷蔵庫から飲み物をそれぞれ出してコップについでくれた。

 遠慮しなければいけなかったか、と言ってから悩んでいたので、少しホッとする。

 良かった、どうやら来客を喜んでくれてはいるようだ。

 冷たい飲み物ばかりなのは、今日は暖かいから気を利かせてくれたのだと思われる。



「秋山くん、菊理さん、この方、長尾ながおあやさんは私の母の妹さんなんですよ」


「ご紹介ありがとう、市花ちゃん。素直に叔母さんでいいのよ。もう年も年だしね。それで、みんな郷土史研究会なの?」


「ああ……ええっと……」


「そうです」


 菊理のことをどう言うか悩んでいる間に、市花が即答していた。


 さっきの友達宣言と言い、ここはあわせろということだろう。

 とりあえず、頷いておく。


 菊理は相変わらず必要以上には何もしゃべらない。

 これは、今日駅で出会ってからずっとだった。



「そうかー、市花ちゃんに彼氏が出来たのかなって、ワクワクしたんだけどねー」


 意味ありげな表情をしてこっちを見る。

 どんな反応をして良いかわからず、虎は、下を向いてコーヒーをすするしかなかった。


「でも、まだわかんないか。同じ部活なら、恋が育まれることもあるわよねー」


「あ、綾さん、秋山くんは、友達ですから、と・も・だ・ち」



 横を向くと、珍しい、市花が真っ赤になっていた。


 手をぷるぷる振るって必死に否定している。

 男としては悲しむところかもしれないが、その仕草の可愛らしさに思わず見とれてしまう。



「ごめんね、市花ちゃん。ほら、私、姪っ子のあなたの恋バナは気になってしかたないのよ」


「それではしかたありません……そうだ、綾さん例の本は」


「そうだったわね。これよ、これ、『小説本朝二十四孝』。浄瑠璃を元に書かれてるけど面白いわよ」


 彼女は、本棚から一冊取り出して、市花に渡す。


「ありがとうございます」


「市花ちゃんは、古代史が好きなのかと思ってたんだけど、最近は日本史万遍なく興味が出てきたの?」


「そうですね、最近は戦国史も少々」


「そうなんだ。その小説は、江戸時代に、戦国時代の歴史を元に書かれたフィクションだから、いいかもしれないわね」


「あ、そうだ、私の部屋で読んでもいいですか? 折角なので二人にも見せたいですし」


「ええ、もちろんいいわよ。前ウチに来たときのままにしてあるから。飲み物も持って行っていいからね。私は下でくつろいでるから気にしないで」


「じゃあ、秋山くん、菊理さん、ついてきてください」



 綾さんに手渡されたお盆に、三人の飲み物を載せ、市花に続く。

 菊理も無言のまま、従っている。


 階段をのぼって二階の隅にその部屋はあった。


 ドアをあけると、ぬいぐるみと可愛い小物がたくさんある女の子らしい部屋が広がっていて、虎が入るのを躊躇ってしまうほどだった。

 片側には本棚があって、ぎっしりと本が詰まっているのが市花らしいといえばそうではあるが。


 真ん中の小さなテーブルに、飲み物を置いて一息つく。

 市花が扉を閉めた。



「市花、しかし何だかここお前のウチみたいだな。お前専用の部屋まであるなんて」


「ここ、長尾家は、私の母の実家なのです。それも、あります」


「なるほど、お母さんの部屋をそのままもらったって感じなのか?」


「いいえ」


「どういうことだ?」


「私も不思議に思っていたのです。どうして自分の部屋があるのか」


「えっ!?」


「この部屋、確かに懐かしい気がするんです。でも、何かが違う。ここは私の部屋だけど、私の部屋じゃない。ずっとそう思っていました」


「自分の部屋じゃない?」


 市花が何を言っているのかよくわからなかった。

 聞けば聞くほどわからなくなってゆく。


「私はぬいぐるみをこれほど愛しておりませんし、何より、本の好みに私の趣味でないものが混じっています。違和感がありすぎるのですよ」


 おっと、これは分かる。

 確かに自分の部屋に自分の趣味でないものがあったら落ち着かないかもしれない。


「この違和感の正体がずっと謎だったのですが、この前の水曜日にようやくわかった感じですね」


「そ、それって……」


「菊理さんはもう気付いているのではないですか? ここは、おそらく、諏訪八重、いいえ、長尾八重の部屋です」

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