第87話 告白 2

 『生きる』って、どういうことなんでしょうね……



 ……



 二年前、あたしは病院でずっと寝たきりの生活を送っていました。


 子供の頃から心臓が弱くて、小学校の途中までは薬を飲みながら頑張って通っていましたが、あたしの症状は重い方らしく、すぐに限界がきてしまったのです。


 病室の窓から、代わり映えしない外の風景を見て過ごすだけの生活。学校の教科書や、母親が持ってきてくれた本はあったので、全く刺激が無いわけではありませんでしたが、同じ場所にずっといるというのは、やはり気まで病んでしまうものです。こんな状態が続くのならば、早く死にたいな、ついにはそう思うようになっていました。


 そんなあたしもいつしか中学生になります。

 なったという自覚は、教科書の表紙から得たくらいですが。


 大きな病院だと、院内学校という病院内の学校があるそうなのですが、あたしの病院にはなかったので、特別支援学校という学校の先生が週に3回、それぞれ2時間ほど、あたしの病室に来て、個別授業をしてくれました。

 実は、小学校のときはまだ、他の子と一緒に授業を受けていたのですが……病状がそれだけ悪化していたということです。


 しかし、これはあたしには楽しい時間だったのです。


 何しろ時間はありますから、課題を出した先生がそのチェック結果に苦笑するほどに、あたしの予習復習は完璧でした。


 二人きりなので、誰にも気にせず、後は、ほとんどは雑談です。

 先生は、あたしのせがむに任せて、いろんな話をしてくれました。


 宇宙の不思議から、まだ見ぬ中学校の同級生の話に、そうそう、その先生もあたしの読んだ本は必ず読んでいたので、感想を言い合ったりもしました。

 何となくですが、あれはきっと、病室にある本を見たり、母親から聞いて、読んでいたのではないかと、今は思います。


 そんなことはどうでもいいことで、あたしが言いたいのは……

 もはや、先生と会うのが、その時のあたしにとって唯一の楽しみだったということです。



 ですが、その楽しい時間も長くは続きませんでした。

 担当の先生が急に変わってしまったのです。



 今度の先生は、前の先生と違って、課題のチェックが終わると、次回までの課題を出して、すぐさま、「次の子が待ってるから」と帰ってしまいます。

 あたしをいじめるつもりがあったとか、そうではないとは思うのですが、これは悲しいことでした。



 そう、再び、死にたい、という思いを想起させてしまうほどに。



 一度幸せな状態をを味わってしまったからでしょう、次第に辛くなる体もあって、以来、以前にも増して、その思いは強くなってゆきました。どうせ、この体は、治らないんだから、と



 そんなときです。

 彼女に出会ったのは。



 再会というのが、正確なところかもしれません。

 

 その日あたしはいつもどおりに窓の外を見ていたのですが、外からどこかしら覚えのある声が聞こえた気がして。

 ベッドを降りて、色々なものに寄りかかりながら、全力で急いで窓のところまで頑張って歩き、窓枠にもたれながら、下をのぞきました。


 目が、あったのです。

 そこにいた女の子と。

 年の頃はあたしと変わらないように見えました。


 彼女はじっとこちらを見ていましたが、軽く頷くと、周りにいる大人と何か一言、二言かわし、大人達に向けて手を振りました。


 そして、あたしのいる病棟の方に歩いてくるのです。

 彼女は、地面から、二階にいるあたしに呼びかけました。


『そこ、何号室?』


 ……それが、彼女、諏訪すわ八重やえとの再会でした。


 声に覚えがあるはずです。

 小学校の頃、一番仲が良かった友達。

 ご両親のお仕事の都合で転校が決まった時の悲しさは、昨日のことのように思い出せましたから。



『久しぶり、くーちゃん』


『やえっち……アタシのこと、覚えてるんだ』


『え? だってあたしたち親友でしょ。当然じゃん』



 彼女は、検査入院している一つ年上の従姉妹のお見舞いに来たのだと、言いました。


 その従姉妹さんには申し訳ないですが、何という幸運。

 しかし、幸運は再会できたことだけではなかったのです。



『あたし、また、こっちに引っ越してきたんだ。よろしくね』



 それから彼女、八重は、時々病室に遊びに来てくれるようになりました。


 天国から地獄の逆です。

 

 病室の中限定ではありましたが、二人で色々なことをしました。


 トランプなどのカードゲームや、ボードゲームに、コンピュータゲーム、ありとあらゆるゲームをしましたが、やっぱり二人でお話をするのが、八重の普段の生活のことを聞くのが、一番好きでした。


 せがむあたしに、彼女は、あたしの体験したことのない世界の話を、毎日の中学校での生活、出来事や、休日の家族旅行などを、たくさんたくさん語ってくれました。


 八重は、あたしの外の世界へのつながりだったのかもしれません。


 でも、彼女のネタにも限りはあるようでした。

 あたしは、全く気にしなかったし、それはそれで楽しかったのですが、彼女が気にしてしまったようなのです。



『今日は話せることが何も無いんだよね……』



 難しそうな顔をして、頭を搔きながら困っている彼女。

 あたしは、気にしなくていいよ、来てくれるだけで幸せだし、と言うのですが、腕を組んで周囲を見回して、何かないかと探しているようでした。

 そして、彼女の目が、あたしの病室の片隅に積んである本に止まったのです。

 ポンと手を叩くと言いました。



『くーちゃん、小説好き?』



 大好きだよ、と答えた次の来訪から、彼女は本を持ってきてくれるようになりました。


 夏目漱石や森鴎外等の明治文学から、シャーロックホームズやハリー・ポッター等の海外文学、格好良い男の子がたくさん出てくるライトノベル、と持ってくる本ごとに、新たな発見をさせてくれるのです、彼女は。



『やえっち、趣味の範囲が広すぎだよ。でも今回のも面白かった。ありがと』


『教養があるって言って欲しいかな。また、持ってくるね』



 あたしの前では、彼女はとても明るかった。

 あたしは、本当に彼女のことを太陽のように思っていました。

 そして、自分はそれに照らされる月だと。


 だから、彼女の変容に気づきもしなかったのです……。


 あたしの体も相当辛い状況になりつつあったので、そのせいだったとは思いたいのですが……。



 数ヶ月そんなやりとりが続いていたある日。

 お手洗いから戻る途中の廊下で偶然耳にした言葉にあたしは心臓が止まりそうになりました。



『214号室の子、やっぱり無理そうなんだって……』



 214号室はあたしの部屋です。

 ……確かに、最近動悸が激しくなることが多くなっていて、意識を失って、ハッと戻る瞬間も、前はまばらであったのが、今は覚えていられないほど……。


 目の前が真っ暗になっていました。

 でも、これから八重が来る時間です。


 あたしは、ベッドに戻ると、鏡で念入りに自分の顔をチェックしました。

 全ては八重に悟られないように。


 しかし、それは、この日に限っては必要なかったのです。



 病室に入ってきた八重には、全く生気というものがありませんでした。そして、無言のまま、彼女はあたしに抱きついてくると、泣き始めたのです。


 突然のこの状況に狼狽したあたしは、ただ彼女の頭をなで続けることしかできませんでした。

 しばらくして落ち着くと、彼女は、あたしに言いました。



『ごめんね……でも、私もう……死にたい』


『やえっち……』



 戸惑うあたしに、彼女は学校で受けた凄まじいイジメについて語りました、震えながら……。それは、ここ数年学校に行ったことが無いあたしでも、辛さがわかるほどの内容でした。


 今日は特に酷かったらしいのです。

 ふと見ると、彼女の鞄も服もどこか汚れていました。


 あたしは彼女をただ抱きしめることしかできませんでしたが、その時あることに気がついたのです。


 二人が、同じであることに。



『もう……死んじゃおっか、あたしたち……』



 自然と口をついて、この言葉が出ていました。

 八重は、一瞬驚いていましたが、涙が乾かぬ顔のまま、静かに頷いてくれました。



 ……



 車椅子に乗せてもらい、八重に運ばれながら、どちらからともなく、何だか小説みたいだね、と言って、二人で笑ったのを今でも覚えています。


 月が綺麗な夜でした。



『月が綺麗ですね』


『えっ? やえっち?』


『あー、これは小説じゃないから、くーちゃんは知らないかも。あの夏目漱石が学校で英語の先生だった頃にね、生徒に教えたある英語の訳なんだ』


『どういう英語?』


『I love you...素敵でしょ』


『えーー! でも、そっか。じゃあ。やえっちに~、月が綺麗ですね、ふふっ』


『ちょ、ちょっと……もちろん私だってそうだけど、何か照れるじゃん……そうだ、これに返事をかえすなら別の言葉があるんだよ』


『別の言葉?』


『死んでもいいわ』


 言葉もそうですが、何よりも言った彼女の迷いの無い顔がとても綺麗だった、のです。


 ドキッとしたあたしに、彼女は、教えてくれました。

 これは、ツルゲーネフの「片恋」を二葉亭四迷が訳したもので、ロシア語はわからないけれど、英語だと「Yours」らしい、と。


『あたしも……死んでもいいわ、やえっち……八重に、八重となら』


『くーちゃん……菊理……』


 彼女は、ギュッとあたしを抱きしめてくれました。

 そして、気がつけば、あたしたちは唇と唇と交わしていたのです。

 これから身を委ねようとしている、崖下に流れる、川の音を遠くに聞きながら。


 こんな時なのに、あたしは星空を見上げながら、彼女とともにロマンチックに浸っていました。


 永遠に思えたあの時――

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