第85話 逮捕 3

「あ、あれ……」



 上杉菊理は、目を開けて驚いている。

 それはそうだろう、夜であるのに、眩しい光に包まれているのだから。


 彼女が目を細めたのは、下からも見て取れた。



 毎週飛び降りて慣れているとはいっても、落下の瞬間まで目を開けてはいられなかったらしい。


 先ほどまでの闇が、今は光の洪水なのだ。

 目が痛くても無理もない。



 次の瞬間、ハッとした様子で、彼女は、両手で顔をさわり、お腹をさわった。


 あまり想像したくはないが、顔がつぶれていないか、内臓がでていないかを確認しているのか。


 血すら出ていないから驚きだろう。


 案の定、狐に包まれたような顔をしている。



「あたし……どうして……」


 

 そして、ようやく目が慣れたのか、自分を取り巻く、金色の光の正体に、自分が何の上にいるかに、気がついたらしい。


 中庭を埋め尽くす、足下から続く金色の帯。

 彼女の目の前で、それは、にゅっと鎌首をもたげた。


 彼女を見つめる目、形はともあれ、とても優しいものだったのだが――。



「ば、ばけものッ……!?」



 金色の鱗の持ち主は、この言葉に憤慨する。



『怪我をしないように体を張って受け止めてあげたのに、ひどいことをいいますね。あなたの体だって十分ばけものじゃないですか。せめて仲間と言ってください、仲間と』



「仲間……? そうだッ。八重やえ、八重ッ」


 大蛇の言葉に首を傾げつつも、仲間というキーワードで感じるところがあったらしく、思い出したように、誰かを探す。



 言うだけ言われた挙げ句、こちらの文句は華麗にスルーされて、うなだれる黄金の蛇神、蒲生。

 心に傷を負っていないかが、ちょっと心配ではある。

 後でフォローの必要がありそうだ。



 キョロキョロしていた上杉は、左手の手錠から伸びる鎖の先に、座り込んでいる市花を見つけると、迷わず飛びついた。


「八重~」


「わ、私は八重さんではありませんよ。とりあえず無事ですので、は、離してくださいな」


 押し倒された状態で、両手をパタパタさせ、抵抗する市花。



「あ……」


 ようやく上杉は、相手が自分が先ほどまで罵っていた、市花であると認識できたようだ。


 悲し気な顔をして、市花から体を離す。



「ふー、自分も北条先輩に何度も同じようなことをしていますが、確かにこれは困りますね。大いに反省します」


 市花は軽口を叩きながら、立ち上がる。


 上杉はまだ納得がいかないのか、じっと市花の方を見ている。



「しかし、いきなりあなたの様子が変わって飛び降りた時は、私も心臓が止まりそうでしたよ。これは何度もやるものではありません。もう、終わりにしましょう」


「……」


 市花の呼びかけに、彼女は応えない。


 ただただ、一挙手一投足を見逃すまいとするかのように、市花を見ている。



だんまりですか? けれど、これでわかりました。あなたの原因はその八重さんですね」


 静寂が、しばらく場を支配した。



 市花は、あくまで、目の前で自分をじっと見ている彼女から言葉を引き出したいようだった。


 上杉は無言のまま、市花の顔を見ていたが、根負けしたのか、とうとう口を開くと言った。


「……あなたは、八重の何なの?」


「そう言われましても……もしかして、私は、その八重さんに似ているのですか?」


「よく見てみると、どことなく面影が似てるの。あなたに、先輩に突っかかっちゃったの、そのせいかも……ごめんなさい」


「……」


 彼女の唐突な口調の変更に驚いたのか、それとも素直な謝辞に意表をつかれたのか、今度は市花が無言になる。



「屋上であの台詞聞いたとき、驚いちゃった。だって、八重そのものだったんだもん」


「……『月が綺麗ですね』ですか?」


「それと、『死んでも良いわ』……これ、あの子が最後に言ってた言葉なの……あの子、そう言ってくれて……いっちゃったの」



 そこからは言葉にならなかった。

 足下から崩れ、手をつく彼女。

 嗚咽、そして止めどなく溢れる涙。


 市花は、彼女の側に寄ると、彼女の頭を優しく抱きしめた。



「私でいいのかはわかりませんが、どこにも行きません。行きませんから。ほら、手錠で繋がっていますよ、私達」


「……や、八重……ごめんなさい先輩、ごめんなさい」



 市花は、謝り続ける彼女を撫で続ける。優しく、優しく。



「本当は凄く痛いし、苦しいし、でも死ねないし、嫌だった……でも、八重はきっとあたしの代わりにこの苦しみを味わったんだって思うと、あたし、あたし……」



「辛かったでしょう……菊理……、あなたは、もう、十分苦しんだ。だからもう、自分を許してあげて」



 確かに声は市花ではあるのだが、市花ではない、別の人間が話しているようだった。



「や、八重? ……ううん、八重でなくても、いいや。あ、ありがとう」


 涙を拭い、市花に向かって彼女は微笑んだ。





「冬美さん、とりあえずこれを着てください。あ、ダーリ……秋山君はあっち向いて!」


 変化を解いた冬美に、着替えを差し出した佐保理が、その場でボーっと考え事をしていた虎を百八十度回転させた。


「ああっ、ごめん、蒲生」


 後ろで、蒲生が着替えていると思うと、見えない分却って衣擦れの音ひとつひとつにドキドキする虎だった。



「もういいですよ……秋山君……」


 その声に振り返ると、元通り、セーラー服の蒲生がいた。

 その左腕に、佐保理が満足そうにくっついている。


 だが、何だろう、蒲生の様子がいつもと違う……?



「……しかし、私は今回変身した意味はあったのでしょうか? 全体の作戦行動ですし、秋山君に是非にと言われたこともあって大蛇になってはみましたが、大きめにした体でお三方を受け止めた以外、あまり機能していなかったように思えます。そのうちの一名にはちょっと酷いかな、という言葉を言われてしまいましたし……私、泣いても良いでしょうか?」


 丁寧な口調は変わらないが、珍しく口をとがらせて不満そうにしている。

 ばけものと言われたのは、心の傷になっていそうだ。

 これはまずい。



「ごめんな、蒲生。後で、上杉からも謝らせるよ。でも、俺は蒲生の変身、綺麗だと思ってるぞ。このまま神様になったらどうしようかって思うくらいだ。神々しいって言うのかな? あれはきっと、お前の美しい心そのものなんだろうな」


「秋山君……」


「おそらくその辺だと思うんだよ。市花が、十種について実感させるために蒲生の役割が重要だって言ってたのは。むしろ俺の役割の方が微妙に思えてならないさ……何で波瑠先輩も市花も、俺に高所からのダイブをやらせたがるんだ! 死なないからとか、そういう問題じゃないぞ!」



 挙げ句、ミッションには成功したが、最後は、蒲生の蛇身を転げ落ちるという有様。

 市花と上杉のやりとりが良く見える位置だったのが、唯一の救いだった。



「ですが、秋山君が、二人を空中で抱えて、上手く私の上に誘導してくださらなければ、少なくとも浅井さんが大怪我をしていた可能性があります。本日のMVPがあるならば、秋山君ではないですか?」


「いやいや、MVPはどう考えても市花さ。俺、今回一部始終を見てたけど、改めて市花の凄さがわかった感じだ。もう凄いとしか言えない。そういえばあの手錠も、佐保理が創ったのか?」


「うん、そだよー、ダー……秋山君。化学準備室の廊下側の壁と扉、手錠の鎖が私の創造。手錠は市花ちゃんの意思で、鎖の長さが変えられるようにしてあったんだよ」


 なるほど、鎖の長さを変えることで、手錠が二人を傷つけず、鎖が繋がっていられるようにしたのか。

 途中で気になった疑問がようやく解消した虎だった。


 そう、あの鎖は絶対に切れてはならなかったのだ。



「あ、どうしようかな……実はもうひとつ、この中庭の下に、落下のダメージを吸収する透明な幕を張ってあるの……冬美さんごめんなさい」


 道理で落ちたときに痛くなかったはずだ。

 虎は、鍛えた俺の体の勝利、と勝ち誇っていた自分が恥ずかしくなった。



「穴山さん、謝らなくても大丈夫ですよ。浅井さんは、起こりうるパターンを全部計算し、誰も傷つくことが無いように配慮したのだと思われます。化学実験室の中身の入れ替えも大変でしたから……」


「中身の入れ替え? どういうことだ?」


「状況によっては、引火する可能性があるからと、薬品等の容器を事前に全部安全な物質の入った容器に入れ替えたんです。気体は空気に、液体は水に、固体の粉は小麦粉に。化学の先生の立ち会いの元、容器の取り替えだけでしたが、本物を運ぶのは緊張でした」


 自分がトランシーバーのセッティングおよびテストを市花としている間に、他の皆が行っていた作業がこれか。


 あの時、彼女がマッチを擦っていても大丈夫だったということ。

 市花の周到さには、頭が下がる思いの虎だった。

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