第42話 勝負 壱

「な、何だと、十種を、奪われた?」


 波瑠は、ティーカップを手に持ったまま絶句した。


 信じられない、という顔をしている。


 およそ虎がキョウケンに入部して以来、いや、彼女とあの朝出会って以来、こんな顔をされるのは、初めての経験だ。


 『絶対予言』ができる彼女ではあるが、あの日、根国湖ねのくにこのほとりで話していたように、その力を無闇に使っていないというのは本当のようだ。


 知っていたらこんな顔はしないだろう。


 虎はそんなことをうっすらと頭で巡らせながらも、完全に心にぽっかり穴のあいた、言うなれば茫然自失状態だった。


 この気持ちをどうしたらいいのか、もう全くわからない。



 自分はできることは全てやったはずだ。


 全力で立ち向かった。


 そして、無残にも敗れた。


 自分の力の無さを知った。


 それだけでなく、大事なものすら失った。



「はい……」


 声にも全く力が入らなかった。



 自分には何も無い。


 既に出がらし。


 何も残っていないのだ。



「ごめんなさい……私のせいかもです」


 気遣うように、横から佐保理。


 先輩の隣には、市花がいるが、流石の彼女も、この事態には軽口をたたくことはできないようで、ただただ困った顔をしている。


「と、とにかく話をきかせろ。対策はそれからだ」


 この一言に表れている、波瑠先輩の優しさ、自分への気遣いが、虎には、痛かった。



―――――――― 



「では、始めましょうか」


 黒髪の彼女にタオルの一方を渡され、虎は途方にくれた。


 ここは、武道場。

 虎達の所属する高校は、実は文武両道を目指しているらしく、剣道や柔道のために、この専用の建物が用意されている。


 同じ空間の中、半分くらいに畳が敷かれ、柔道用。

 もう一方が板のままで剣道用となっている。



 彼女に勝負を提案された虎は、一も二も無くそれを受け入れた。


 当然だ、彼にしてみれば、か細い希望の糸。

 それも今回は、一度日を改めるか悩んでいた程なのだから。



 体操着に着替えてから、ここに来るように言われ、虎は一旦二年生男子用の更衣室まで戻り、着替えてきた。


 武道場に入ると、彼女は既に体操着姿で待っていた。


 いかにもスポーツマンらしい、スレンダーな肢体は、健康美というのに相応しく、虎には思えた。


 そして、なぜか佐保理も体操着に着替えて来ていた。


 彼女の側は、対照的に、女性らしい、丸みを帯びた、そう、胸の主張も強い感じで、蠱惑的な魅力を備えている。


 男子としては、イケないと考えても、どうしても視線がそこに向かってしまう。

 意外と言ったら失礼だが、彼女は実はキョウケン一スタイルが良いのだ。



「ダーリン。もしかして私の胸とか見ちゃったりしてる? これは、直ちゃんに一歩リードかな~、ふっふっふ」


「い、いや、その、クラス違うだろ、体操着姿は、初めて見るな、って思って」


「ダーリンならいいのだよ~、じっくり見て見て」


「こ、こら、変なポーズとるなって」



 先程、あれ程泣いていたのはどこへやら。

 ともあれ、元気になっているのには、ホッとする。


 この格好は、応援してくれるということなのだろうか。

 一緒に戦う意思表示のようで、虎は少しくすぐったい気がした。



 今日は体育会系の部活はどこもお休みの日とのことで、他に生徒の姿は無かった。先生には使用許可を得ているから問題ないのです、と黒髪の彼女は説明に付け加えた。



 十種のこともあるし、黒髪の彼女も何やら知られたくないことがあるらしい、この状況は互いにとってよいことだろう。


 そもそも男女での勝負というのも、男子生徒の虎としては、あまり他の生徒には見られたくはないものである。



 虎と佐保理は、彼女に剣道用、床が板の方に案内され、大人しく従う。


 ここは体育館に比べると少し狭いようには思えるが、それでも三人だけだと、広すぎて、やや照明が暗いのも相まって、話していないと寂しさのようなものを感じる。


「それで、何で勝負するんだ?」


 彼女は、無言のまま、傍らに置いているスポーツバッグからタオルを取り出すと、その一方を自分の手にしながら、もう一方を虎に渡したのだ。



「ええっと、これ、どうすればいいんだ?」


「おや、タオル綱引き、ご存知ないですか?」


「タオル綱引き?」


 初めて聞く言葉だった。

 岐阜では有名なのだろうか。


 ふと、佐保理の方を向くと、彼女はそれに首を振って答えた。


 二人とも知らないのを悟ったらしく、黒髪の彼女は説明を始めた。


「綱の代わりに、タオルで行う綱引きです。違うのは、勝敗の判定。綱の基準線が互いの真ん中を超えるかどうかではなく、足が床から離れて動いたら負け、倒れたら負け、タオルを離したら負け、というところですので、ご注意」


「なるほど……」


「これならば、スポーツの経験の有無も関係なく、力とバランス感覚の勝負。公平だと考えたのですが、いかがでしょうか?」


 彼女はそう言ってくれるが、実際には力の強い男子の方が有利であるように、虎には思えた。


 そもそも綱引き自体、力の勝負ではないだろうか。


 しかし、足が動いたら負け、倒れたら負けというところに、ポイントがあるようにも思える。


 彼女が続けた説明によると、互いの利き足を前に出し、逆の足は後方に置く。

 利き足の先端同士の距離は、タオルよりも短い。


 これだと、引っ張れる距離に限界がある。

 緩急による駆け引きがあるのだろう。

 確かにバランスが要求される。


 それならば、単なる力の勝負ではないから、相手が女子でも勝った時に後ろめたくはならないだろう。


 虎は納得した。


「わかった。これでいい」


「では、開始の合図と審判は、彼女にお願いしましょうか。ええっと……」


「穴山です。穴山佐保理」


「穴山さん。これは失礼しました。私は、蒲生がもう冬美ふゆみと申します。以後お見知りおきを」


「こちらこそ、よろしくお願いします。冬美さん」


 佐保理の目が輝いている。

 そして、お辞儀し合うという……なんという丁寧な挨拶。


 市花ではないが、まるでお見合いのようである。

 どうやら彼女は、完全に黒髪の彼女、蒲生のファンになってしまったらしい。


 彼女の性格から、審判として判定をそれで揺らがすことはないだろうが、普段ダーリンと慕ってくれる、彼女の心が蒲生に向いているのは、虎には気になるものだった。


 普段、そうだ、今のうちに、腰に付けてるアレを彼女に渡しておかなければ。



「ああ、でも始める前にちょっと待ってくれ」


「よろしいですが、なるべくお早めにお願いいたします」


「大丈夫、すぐおわる。佐保理これ持っててくれ」


「えっ、これ……」


 虎が佐保理に渡したのは、八握剣やつかのつるぎだった。


「波瑠先輩に、いつも持っておけって言われててさ」


「大事な物、なのですね」


 蒲生は、剣の不思議な形状が気になったらしい。


 柄のみの、剣だ。

 湖で一度目にしている筈ではあるが、これだけでは何なのかはわからないだろう。


「そうさ、これは俺の命だからな」


「ふむ……では、今度こそ、よろしいでしょうか?」


「おし!」



 互いの左足を前に出して向き合わせる。

 右手にタオルを持ち、呼吸を整える。



「はじめっ!」


 佐保理の声。開始の合図。




 ……バタン!



 次の瞬間、虎は、天と地がひっくりかえっていた。




「ごめん、ダーリン。こればっかりは……」


「い、いや、面目ない……」


 何をされたのかが、よくわからない。


 背中の痛みをこらえながら、可能な範囲で思い出してみる。



 自分はまず蒲生のバランスを崩そうと、彼女よりは優位であると考える男の力で、タオルを目一杯引っ張ったのだ。


 しかし、想定外なことに、彼女はびくともしなかった。


 逆に勢いを付けてしまったため、こちらがバランスを崩し、吸い込まれるようにして、転んだのか?


「私の勝ちですね。もう、よろしいでしょうか」

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