第5話 きっと夢だ、違いない

御屋形おやかた様は、今ご気分が悪くおいでである。その場で申せ」


「これは奥方おくがた様、お休みのところ、ご無礼いたしました。されば申し上げます。くだんの魔物が、また現れたとのこと」


「何と……このような時に……」


 つやは、傍らの虎の方をちらりと見ながら軽くため息をついた。


「もうよい、下がれ、追って沙汰する」


「はっ」


 襖の向こうで足音がして男の気配が消えた。

 同時に艶は、綺麗な黒髪を苛立つようにかきむしる。


「さても、どうしたものか、黄梅。この有様の殿を戦わせるわけにはゆかぬであろう。先のいくさの際に無理を押してでも仕留めておくべきであったな。口惜しや」


 一向に状況が飲み込めていなかったが、彼女のやるせなさを感じさせる言葉に申し訳無くなってきた虎であった。


 一方、そんな彼を見るもう一つの瞳は、悪戯そうな気色けしきを深めていた。


「心は童のようになられても、殿は殿、魔物に相対するにいささかも不都合はございますまい」


「黄梅、それは狼の前に赤子を差し出すようなものではなかろうか? 剣は元々わらわのもの。妾にも扱える。剣技は殿に劣れども、遅れを取ることはあるまいぞ」


「艶様がそこまで仰せられるのであればお止めせぬが、摩利支天まりしてん御遣みつかいではないにせよ、かの魔物はこの地の霊気にあてられた化け物ゆえ、努々ゆめゆめ油断めされることの無きよう」


「ちょ、ちょっと待ってくれよ」


 虎を放って話に興じていた二人の視線が彼に集まる。

 一方は憂えを、一方は興味を伴う点に違いはあるものの、いずれも彼に対し真っ直ぐに向けられており、面くらいはしたものの嫌な気はしなかった。


「殿……?」


「お前を、その、化け物と戦わせるわけにはいかないだろ。俺が戦うよ」


 虎は、自分の言っていることは滅茶苦茶だと感じた。

 しかし、目の前の、直にそっくりの女の子が、自分が役に立たない状況のために、自分の代わりに戦うというのを見過ごすのは許せないことだった。


「どうされます、艶様。殿はこのように仰せですが」


 虎と黄梅とを交互に見つつ、彼女は逡巡していたが、やがて、決意を固めた表情になった。


「決めた。戦いは殿にお任せする。しかし、今の殿をお一人で戦わせるわけにはゆかぬ。わらわも、戦場に同行いたしまする」


 この申し出については、自分自身への若干の情けなさはありつつも、首肯しゅこうせざるを得なかった。何しろ一人で戦えといわれても土台無理な話だ。


 そして、やはりこれも言っておかねばならない。

 虎は勇気を精一杯振り絞った。


「ありがとう、直、いや艶か。そしてごめん、もう少し俺のこと、今俺がいるこの場所のこと、そして敵の化け物のこと、教えてくれ」


 流石に他の二人は一瞬あっけにとられていた。

 冷静沈着そうな黄梅もまさかここまで素直に言葉にされるとは思わなかったのだろう。


 失敗だったか、と虎は後悔する。しかし、それは杞憂だった。

 次の瞬間、二人の間に広がる爆笑の渦。


「と、殿、ますますお慕い申し上げたくなりましたぞ」


 抱きついてくる艶。

 腕に擦り付けられた柔らかい感覚に、虎の鼓動が早鐘のように打ち続ける。


「艶様、ですから、先ほど申したではありませぬか。しかし、まさかこれほどまでに、ちごのごときに、いとらうたし、とは……私もいささか、あやしうこそものぐるほしい心地にございます、あはは」


「枕草子に徒然草か、そなたは誠に博識。じゃが、この初心うぶな殿は妾のものであるぞ、誰にも渡さぬ、ふふふふ」


 ぴたりと体を寄せる艶に、いまだに興奮冷めやらぬものの、二人の雰囲気の変わりように、実は直と先輩が自分のことをかついでいるのではないだろうかと、真剣に考えてしまった虎だった。



「さて、では何からお話いたしましょう」


 それから、艶の説明が始まった。

 黄梅もそれとなく時々横から口を挟みながらで、こんな話が語られた。



 自分は、『秋山伯耆守ほうきのかみ』、武田信玄の配下の武将だという。

 いみな、つまり真の名前は『虎繁とらしげ』らしいが、口頭で繰り返していたところ、この名は大事なものであり、むやみに口にすると呪われてしまうから言ってはいけないのだ、ととがめられた。

 だから普通は『伯耆守』と位名で呼ばれるということだ。


 なんとなく、掃除道具を持った自分を連想してしまった虎は、艶の自分を見る真っすぐな表情に、とても罪悪感を感じ、即打ち消した。


 真の名を大事にするというのは現代人の虎にも何となく分かる気がした。

 そして、自分が艶に『とら』と呼ばれた理由も納得できた。

 諱に基づく愛称なのだろう。響きも武将の二つ名として遜色無い。


 上司の武田信玄の名前は歴史の点数があまり良くない虎でも当たり前に知っている。ライバル上杉謙信との川中島の戦いに心躍らない男はいないだろう。

 実際強い戦国大名というイメージしかなく、それ以外は全く知らないが、問題はあるまい。

 自分がその武将、しかもここが戦国時代であると思うと、血がたぎってくる。



 ここ岩山の地は、武田信玄と織田弾正忠だんじょうのじょうの勢力圏の狭間はざまにある、所謂抗争地帯らしい。


 艶は元々織田側の岩山城主として、秋山伯耆守と戦い、彼に敗れたことで、そのおとこらしさに惚れてしまい、妻になったという。


 そう語る彼女の顔は少しうっとりしていた。

 虎の側は、隣の直と同じ顔の女性が、ここでは自分と結婚しているのだと意識しただけで、自分の鼓動が急に早くなったのを感じた。


 しかし、そんなときめきを感じているのも長くは続かなかった。


 ふと考える。織田弾正忠という人物は聞いたことが無いが、自分の知っている範囲では、織田と言えば信長だ。信玄と戦えるのは、きっと信長しかいない。


 このように納得はできたのだが、逆に、自分が意外にとんでもないところにいるのに、気がついてしまった。


 ここは、戦いの最前線ではないのか?



 そのとおりで、抗争地帯ゆえに、戦いの犠牲も双方多く、霊力が溜まりやすい歪みの地であることも相まって、その行き場のない霊力が魍魎を産んでしまいやすいとのことだ。


 今回の魔物もそういった魂の成れの果てなのでは、と語る艶の顔はどこか悲しげだった。


 魔物はその成り立ちゆえに通常の武器、刀や槍、弓では歯が立たない。だから、艶が扱えると主張していた『つるぎ』を使い、浄化するらしい。


 なんと、敵は織田軍だけではなく、魔物もいるのか。


 虎は、自分を取り巻く厳しい現実に打ちのめされつつ、ここまで話した艶が自分のことを今まで以上にじっと見ていることに気づいた。


「艶、どうした? 一応お前の説明は理解したつもりなんだけど。何かあるのか?」


「やはり、確かめておかねばならぬことがございます。庭においでくださりませ。」


 気がつくと、虎は、城の庭にて木刀を持たされ、同様に木刀を正眼にかざす艶と相対していた。


「ちょ、ちょっと待てよ、艶」


「何を申されるのです。今の殿のお力を確認できねば、心やすく魔物と戦わせるなど、妾にはできませぬ」


 一歩も退くところはなさそうな艶だった。

 傍らでは、黄梅があの悪戯そうな光を瞳に浮かべて二人のやりとりを楽しんでいる模様。


「そう言われても、女の子に剣を向けるなんて俺にはできないよ」


「妾のことなどお気になさいますな。それにいつもの殿でしたら、妾に傷一つつけることなく、負かしてしまわれますのに。そうあの時からずっと……」


 何か思い出して赤くなっている。

 そんな自分に気がついたのか、かぶりを振ると、彼女は虎の方に向き直り、再度刀を正眼に構えた。


「いざ尋常に」


 虎は抵抗するのを諦め、ただ、やる気のないそぶりは彼女を傷つけると思い、ここでも精一杯気合いだけは刀に込めて構えた。


「なかなか良き武者ぶり、ではまいりますぞ――」

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