第4話 これは夢?

「……さま……とら様」


 遠くから優しい声がする。


 心地よいまどろみから、次第に意識はその声のする方へ向かって行く。


 まるで、導かれるように。


 それに従い、五感が把握する周りの空間の感触が鋭敏なものとなり、やがてそれは現実の知覚となる。



 数回ゆっくりとまたたき、最後、重さで抵抗してくるまぶたをやや強引にこじ開けた。


 目に映るのは、木造家屋の天井、そして、自分に向かって微笑んでいる、あの声のままに優しげな女性の顔。


「おや、本日はお早いお目覚めですこと。いつもならば、わらわが何度呼びかけても、その度にわらべのように寝返りをうたれ、なかなかに手強い有様ですのに」


「……」


「まだ、意識がはっきりとされておられぬのですか? 武田の鬼武者もこのままでは危ういご様子」


 彼は、寝起きが原因なのではなく、どちらかというと困惑のため、何も言うことができないでいた。


 自分の名前は、秋山虎。

 この春、親の仕事の都合で、東京の八王子から山梨と長野を超えて岐阜の東部にある江名えな市に転校してきた。

 それを除けば特にドラマ性も無い、所謂普通の高校二年生のはずだ。


 武田? 鬼武者? いったい何の事なのだろうか?

 その口からつむがれる数々の名称も気になったが、もっと気になるのが彼女の姿格好だった。


 薄紫色の着物上衣に、紺色の袴、彼の記憶では時代モノのドラマに出てくる若武者が着ているような風体である。


 そして何よりも困惑させているのが彼女の顔だった。


なお?」


「おや、いつもでしたら、つやとお呼びくださいますのに、これまた珍しいこと」 


 明らかに直の顔であるのだが、この反応から考えるに、やはり直ではないらしい。


 よくよく見ると、髪の色は黒で、その先は腰にまで届きそうな長さである。

 髪の色はさておき、どう髪型を変えてもいつものポニーテールからあそこまでの長さにはならないだろう。


 別人と考えるしかない。


 彼は、今の自分の状況が知りたい気持ちをどうにも抑えられなくなり、上体を起こして、周りを見渡した。


 部屋の一方は床の間になっており、どう頑張っても読めないがおそらく文字であると推察される何かが墨で書かれた掛け軸が垂れ下がっている。

 他の三方は、いずれも襖で、その向こうがどうなっているのかはわからない。


「どうなさったのです?」


 虎の様子を流石に不審に思ったのか、先ほどまでの優しさこそは失わないものの、心配気な香りが漂っている。


 その言葉にどこかデジャブのようなものを感じたが、いつどこで同じ状況になったのかは何故か思い出せなかった。


 何と答えて良いか分からず、じっと彼女の瞳を見つめる。

 彼女もそれに応えるように、視線を寄り添わせてくる。

 澄んだとても綺麗なその瞳で。

 それは、とても、とても長い時間に思えた。



 この状況に絶えきれなくなったのは、やはり自分が異邦人であることを自認せざるを得ない、虎の側だった。


「俺は……誰なんだ?」


 もう少し何か上手い言い方は無いのか、というところだが、これが彼の精一杯。


「誰?」


 彼女の心配が戸惑いに変わっているのが明らかに見て取れる。

 

「いまだ夢の中におられるのか? それともわらわをからかっておいでか? 殿、お戯れにしては趣味が悪うございますぞ」


「俺が、殿……?」


「ふむ、こはいかに? 誠にご不明でおられる様。狐に憑かれてしまわれたのか?」


 どうやら先ほどの問いは探りであったらしい。

 つやと名乗る女性は、虎から視線を外すと、一人で会議に勤しみ始めた。


 彼としては、落ち着く暇を与えられたわけではあるが、彼女の下す決断によって自分の運命が変わるような予感もあり、やはり気が抜けない。彼女から目を離せない。


「……となれば、祓うが必定。祓われねば妖しの類ではあるまい。しかし、殿を剣で斬るわけにはゆかぬ」


 何だか物騒なことを言い始めている。何をされるのだろうか。虎の背筋に冷たいものが流れる。


「殿、しばしお待ちを、黄梅おうばいを連れて参りまするゆえ」


 それだけ言い残すと、彼女はつっと立ち、襖の向こうに姿を消した。


 どうしたものか、逃げるならば今がチャンスな気もする。

 だが、勝手がわからない場所を歩き回るのも不安がある。


 黄梅おうばいとは何なのだろう?

 雰囲気から察するに人なのか。


 自分は何をされるのだろう?

 やはり逃げたほうがよいのか。


 彼がそんな優柔不断な独り会議を無駄に繰り広げている間に、襖が開いた。


 先ほどの、直にそっくりなつやに加え、もう一人、頭に白い布を被り、濃い紫色の着物を纏った人物。


 姿形からこちらも女性と見て取れる。

 黄梅おうばいとはこの者のことなのだろう。


 しかし、こちらもどこかで見たような顔をしている。どこでだろうか……


「あ、朝の先輩!!」


 布から垣間見える顔は、紛れもなく、朝、不運にもぶつかり、虎にとってさらなる不運を巻き起こした張本人と同じだったため、彼は気にせず叫んでしまった。


 艶は、その様子を指し示しながら、黄梅に困った視線を投げかける。


 一方、その黄梅は、虎の発言を全く気にしていないかのように、静かな佇まいだった。


「このとおりなのじゃ、黄梅。殿なのは確かなのだが、一向に要領を得ぬ」


 黄梅は軽く頷くと、虎をじっと見つめてくる。心なしか、彼女の瞳の奥の輝きが増している。


 同一人物であるのかは、不明なままだが、心の奥まで見透かされるのではという目はここでも変わらなかった。



 やがて、輝きが収まると、ほう、と息をつく。


「艶様、これは狐やあやかしの類ではございませぬ。殿は殿に。しかし、ふむ、殿自体が変わられておりますな。しばし様子見いたしましょう。おそらくお忘れのことが多いゆえ、十分にお世話差し上げられますように」


かたじけない、黄梅。されば、何やら赤子に戻られたようで、嬉しくもある。存分にお世話差し上げるとしよう」


 何だか良くは分からないが、テストのようなものは済んだようだ。

 合格では無さそうだが、不合格でも無い様子に、ホッとする虎。


 だが、まだ安心するのには早かったのだ。

 

御屋形おやかた様!」


 襖の向こうから、半ば叫ぶような男の声がした。

 危急を告げる、そんな勢いに、虎は嫌な気配を感じた。

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