そよ風がまた
黒尽くめに誘われ、突如現れた異界の扉を通り抜けたリシュリオル。その先にあったのは、干し草が山積みに置かれた納屋だった。
「干し草……。ここは牧場か何かか?」リシュリオルが呟く。
「そのようですね」アリゼルが納屋の外へ向かいながら言う。
レグリスもアリゼルに続いていき、リシュリオルも二人の精霊の後を追っていく。
納屋の外には青々とした牧草地が広がっていた。なだらかな傾斜のある草原。新緑に覆われた丘の上に数頭の牛が草を食む姿が見える。
風が吹いた。湿り気を帯びたそよ風。少しだけ潮の香りが混じっている。
納屋の付近から周辺を見渡す。少し離れた場所に、白い壁に青い屋根をした木造家屋が建っていた。きっとこの牧場に関わる建物だろう。
建物の反対側へ視線を送る。遠くに街が見えた。赤いレンガ造りの建物達が青い海に向かうように、階段状に並んでいる。
街の周囲には小麦畑が広がっていた。大きく実った穂が風に揺れ、黄金の波を生み出している。
麦秋。麦が実る初夏の季節。以前、『彼』とここに来た時は春だった。
そう、ここは……。
背後から草を踏む足音が聞こえた。青い屋根の家の方からだった。一人の男がこちらに向かってきている。ボサボサの白い髪が風に揺れていた。
男はリシュリオルの姿を見て足を止めた。そして、おもむろに口を開いた。
「またボサボサ頭に戻ったのか、……リシュ。アリゼルも、久しぶりだな。……俺の知らない顔もいるみたいだ」
「お前だって、ボサボサだろ……。ラフーリオン……」震える声のリシュリオル。
「お久しぶりです。ラフーリオンさん」丁寧にお辞儀をするアリゼル。
「……」レグリスは何も言わずに、青い屋根の家の方を見つめていた。
真っ白い民族衣装を纏ったラフーリオンの懐かしい姿を見て、リシュリオルの中から様々な思いが込み上げてきた。
涙が出そうになったが必死に堪えて、無理やり笑顔を作った。きっと酷い顔をしていただろう。だが、彼を前にして、そんな事を気にする余裕は無かった。
「やはり、お前が来ると思ったよ」
「『やはり』? どういう意味だ?」
「ついて来てくれ。それを説明するには、ある人を紹介しなきゃならない」
ラフーリオンは振り返り、青い屋根の家の方へと歩き出した。リシュリオルはそんな彼の背中を無言で追いかけた。
彼の後ろ姿を追いかけている内、衣服の隙間から光の粒子が漏れ出ている事に気付いた。彼がこの世界に居られる時間はもう残り少ないらしい。
今、ラフーリオンに旅を続ける事を提案すれば、彼の異界の扉は再び開かれるのだろうか。そんな事を一瞬考えたが、リシュリオルはその考えを口にする事はできなかった。
青い屋根の家の前に、フォーマルな黒いドレスを着た女性が立っているのが見えた。顎の辺りまで伸びた艷やかな黒髪。透明感のある白い肌。何もかも見透かしてしまいそうな、暗い灰色の瞳がリシュリオルの姿を捉えている。
美しい人だった。秀麗な外見に加え、人の理から外れた神秘的な空気を纏っており、何か超常の存在の様にも感じられた。リシュリオルは異界渡りになってから、様々な人間を見てきたが、彼女のような独特な雰囲気を持つ女性に出会うのは初めてだった。
「ラフーリオン。……この子がそうですか?」透き通った声。何故か聞き覚えがあった。
「はい。俺の昔の旅の仲間、リシュリオルです。こっちの鎧の精霊はアリゼル・レガ。そっちのコートは……」ラフーリオンが女性にリシュリオル達の事を紹介していく。
「レグリス・フラ。先生のコートから生まれた精霊なんだ」
リシュリオルがレグリスの事を大雑把に紹介する。だが、レグリスは相変わらず無言のままで、それどころか女性に見据えられた途端、リシュリオルの影の中に隠れてしまった。更に、さっきまでベラベラと話していたアリゼルも、何も言わずにレグリスの後を追って、影の中に消えていく。
(なんなんだ? 失礼な奴らだ)リシュリオルは精霊達の不可思議な行動に首を傾げた。
「あの、こちらの方は?」気を取り直すように、リシュリオルがラフーリオンに尋ねる。
「彼女はシュナスェールさん。お前と別れてから、行き場の無かった俺の世話をしてくれた。今は一緒にこの牧場の運営をしてる」
「へえ。一緒に、ねぇ……」リシュリオルは怪訝そうな表情を浮かべながら、二人を一瞥する。
「なんだよ?」
「いや、別に」
きっと一つ屋根の下、二人きりで暮らしてきたのだろう。それはただ、共に仕事をしているだけの間柄なのか。この二人の関係については色々聞きたい事はあったが、やめた。他に聞くべきことがあった。
「……さっき言っていた事、教えてくれ。私がこの世界に来るのを知っているみたいだった」
「それは私から説明しましょう」シュナスェールが小さく手を上げた。黒いドレスが静かに揺れる。
「あなたはここに来る前、私の分身に会いませんでしたか?」
「もしかして、あの黒尽くめは……」
「その様子だと、会っているようですね。あれはラフーリオンと縁のある者をこの世界に導く為に送った使者です。使者があなたを選んだのは、彼との間に強い絆があったからでしょう」
この女性は一体何者なのだろう。どうやったら、異界の壁を越えて、自分の分身を使者として送る事ができるのか。リシュリオルの頭の中は疑問でいっぱいだった。しかし、いくら考えても埒が明かないので、それらの疑問を一つずつでも解消する為に、シュナスェールに問う。
「何故、使者を送ったのですか?」
「あなたには分かっている筈ですよ」
シュナスェールはラフーリオンを見た。つられて、リシュリオルの視線も動く。先程と変わらず、ラフーリオンの衣服の隙間からは光の粒子が零れていた。
「私は異界渡りの魂の安息を手助けする者。あなたをここに呼んだのは、ラフーリオンの魂を安らかに眠りにつかせる為。彼の最期を看取って貰う為です」
「じゃあ、ラフーリオンはもうすぐ……」
リシュリオルが悲しげな面持ちで、ラフーリオンの顔を見ると、彼は微笑みを浮かべながら言った。
「いいや、まだ消えやしないさ。一週間位は猶予がある。だから、その間にお前の旅の話を色々聞かせてくれ」
「立ち話は疲れるでしょう。家の中に入ってください」シュナスェールは玄関の扉を開け、リシュリオルを招き入れた。
家の中に入ると、リシュリオルはラフーリオンと共にリビングに置かれたソファに座らされた。シュナスェールはお茶を淹れてくると言って、キッチンに向かった。
シュナスェールがお茶を淹れるまでの間、リシュリオルはリビングの様子を見渡していた。
開放感のある大窓がある部屋。時折吹き抜ける風の感触が心地良い。白塗りの壁には、この牧場の風景を描いた絵画が飾られていた。壁際に並ぶ木製家具もすべて白塗りに統一されている。その白い家具の一つに、いくつもの酒が収納された戸棚があった。酒瓶に貼られたラベルは途轍もなく古い物のようで、非常に希少性の高い酒である事は、素人目にも直ぐに分かった。
「そこの酒、勝手に飲むなよ」酒の入った戸棚を見ているのに気付いたのか、ラフーリオンが不意に話しかけてきた。
「飲むわけ無いだろ、人の家の物だぞ」
「……そうだよな。でも、気を付けろよ。俺が酔った勢いでその戸棚の酒に手を付けた事があったんだが、シュナさんに腕の骨を折られたからな。完治するのに一年以上掛かった」
「頭悪すぎだろ、お前。酒癖は相変わらず最低最悪なんだな。…………というか、あの人に腕を折られたのか?」
「折られた」ラフーリオンは真顔で言った。
「何の話をしているのですか?」
陶器製の配膳用トレイの上にティーカップを載せたシュナスェールがリビングに戻ってくる。先程のラフーリオンの話を聞いて、リシュリオルは彼女と目を合わせるのを躊躇った。
「いえ、リシュが昔話を……」慌てて、ラフーリオンが嘘を付く。
「私にも聞かせていただけませんか? リシュリオル」トレイをテーブルの上に置くと、シュナスェールはリシュリオルに微笑みかけながら言った。
「え、あ、はい」少しだけ躊躇いながら、リシュリオルは話を始めた。
その日、リシュリオルは眠りにつく時まで、異界の旅の事を語り続けた。時折、ラフーリオンとシュナスェールが席を離れ、牧場の仕事をしに向かったので、リシュリオルもそれを手伝った。
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