素晴らしき道へ

 リシュリオル達は一度、ディイノーカのコートから生まれた精霊を連れて、ノバトゥナの家に戻ることにした。家の前には、惚気け終わった二人が既に帰ってきていた。


「遅かったね。何かあったのかい?」ラトーディシャが尋ねる。

「先生のコートが精霊になった」


 リシュリオルは宙に浮かぶ真っ黒いコートの姿を指差した。ラトーディシャもリアノイエもそれを見て、ぽかんと口を開けていた。


「……とりあえず、家の中で話しましょう」


 そう言うと、ノバトゥナは直ぐに家の扉を開け、部屋のストーブに火を灯した。


 リシュリオル達はコートの精霊の事を二人に説明した。二人共、精霊の出生の原理についてはあまり知らなかったようで、目を見開いていた。


 リシュリオルも初めて精霊誕生の秘密を知らされた時は、自身が精霊憑きでありながら、その精霊について全くの無知であった事を恥じ、自らの力の源となる存在の事を少しは学ばなくてはならないと思った。


「それで、この精霊の宿主はいるのかい?」説明を聞き終えたラトーディシャが尋ねる。

「そういえば、考えてなかった」

「取り敢えず、僕は駄目だな。竜と精霊が一緒になるなんて事は、例え天地がひっくり返っても起こりえない事だ」

「なら、取り敢えず私が試そう」


 リシュリオルが椅子から立ち上がると、アリゼルが彼女の肩に手を置いてきた。


「浮気ですか? 良くないですよ、そういうのは」

「変な言い方するな!」怒鳴るリシュリオル、直ぐに咳払いをして、気を取り直す。

「……じゃあ、始めよう」


 リシュリオルはアリゼルの手を振り払い、コートの精霊の傍まで歩み寄った。


「さあ、取り憑いてみろ」リシュリオルが促したが、コートの精霊は動かなかった。

「分からないんじゃないかな。生まれたばかりだし」ラトーディシャが微動だにしない精霊に向かって言った。

「そんな事は無い筈よ。精霊は生まれた瞬間に、自分の本質を理解する。親に育てられて、成長する人間とは違うの」ノバトゥナが真面目な口調で説明する。後から、アリゼルのふざけた口調の声が続く。

「ええ、そうです。『私』が言うんだから間違いない。あなたもその透けた身体では虚しいでしょう。彼女に取り憑く事ができればきっと楽しいですよ~」


「虚しい……。楽しい……」コートの精霊はぼそぼそと呟いている。


 やや間を置いて、コートの精霊は実体の無い手のひらでリシュリオルの身体に触れた。コートの精霊の力は何の抵抗もなく、リシュリオルの身体にすんなりと入り込む。これは、リシュリオルがこの精霊の力の適性を持っている事を意味していた。 

 

「あらら、精霊を二股ですね」アリゼルがおどけた口調で言う。

「だから、変な言い方を――」

「俺の力は、お前の肉体を強くする。何十倍にも、何百倍にも。お前の拳は鉄をも容易く砕き、刃や弾丸が迫ったとしても、その身に傷一つ付かないだろう」

 

 リシュリオルはアリゼルに怒鳴ろうとしたが、コートの精霊がいきなり流暢に話し始めたので、唖然として黙り込んだ。


「リシュ、どんどん強くなっていきますね……」ふとリアノイエが呟く。

「僕とリアが力を合わせても、きっと敵わないんだろうな」ラトーディシャがため息をつく。

「いいえ、あなたと私が一緒なら、どんな相手にだって勝てるわ」

「ふふ、そうだねリア。君と僕がいれば――」


「ああ! もうそういうのいい! もう聞きたくないよ!」


 リシュリオルは両腕を振りながら、大声で二人の会話を遮る。彼女の荒ぶった行動の意図が分からず、二人は呆然としていた。何も気付いていないというのは、本当に質が悪い。


「……そんなことより、こいつの名前を決めよう。名無しじゃ不便だ」

「精霊に名付け親は要りません。勝手に浮かび上がる物なのです」

「そうなのか? じゃあお前の名前は何だ?」


 リシュリオルが問うと、コートの精霊は「レグリス・フラ」と、それだけ答えた。


 彼ら精霊は本当に不思議な存在だ。なぜ、自分の名前や能力を知っているのだろう。宿主となる生命の知識を一体何処で得たのか。彼らは老いるのか。生死の概念があるのか。


 疑問は尽きることなく浮かび上がってくる。本当に精霊の事を学んだ方がいいのかもしれない。今度、アリゼルを講師にして、勉強してみるか。


 リシュリオルが精霊について思考を巡らせていると、ノバトゥナが「そろそろお昼にしましょう」と言って、手を叩いた。


「新しい仲間もできた事だし、少し張り切っちゃいましょう」ノバトゥナが袖を捲くりながら、何処か慌てた様子でキッチンに向かう。


 精霊は食べる事ができないので、あまり意味の無い努力だとリシュリオルは思ったが、「私も手伝うよ」と言って、ノバトゥナを追いかけ、二人でキッチンに並んだ。


 リシュリオルとノバトゥナが料理をしている間、ラトーディシャは読書をし、リアノイエは仮眠を取った。アリゼルは生まれたてのレグリスの素性を知る為、延々と質問を投げ掛けていた。


 昼食を調理している時、ノバトゥナが不意に聞いてきた。


「リシュ、あなたはあの精霊を、レグリスを異界に連れて行くつもりよね」

「ああ、そのつもりだけど……」


 リシュリオルが控えめに答えると、ノバトゥナの手が止まった。


「これは独り言だから、何も言わずに聞いていて」

 

 そう言って、横に並ぶリシュリオルの顔を一瞥すると、ノバトゥナは視線を前方に戻し、静かに語り始めた。


「……氷の竜との戦いが終わってから、私はずっと彼の事を忘れられなかったの。あなたが託してくれたコートを見ながら、昔の事をずっと思い浮かべていた……」

「……」


 リシュリオルは黙って、彼女の話を聞き続ける。ノバトゥナの呼吸が荒くなっているのを感じる。


「私がここまで来れたのは、彼との思い出があったから。約束があったから。……あのコートは唯一の遺物、私の心の苦しみを和らげてくれる拠り所なの。だから――!」

 

 ノバトゥナの声は段々と勢いを増し、いつの間にか部屋中に響いていた。本を読んでいたラトーディシャと精霊達の視線がキッチンに立つ二人に向かう。


「駄目だ。あいつは連れて行く」リシュリオルは、はっきりと告げた。

「どうして……?」ノバトゥナの目元が潤み始める。


「今のノバトゥナは、先生との思い出に縛られて、何処にも行けないでいる。私もそんなふうに迷っていた事があるから分かるんだ。……でも、人はいつまでも立ち止まっていちゃいけない。……先生が最期に言っていた素晴らしい道を歩むには、ノバトゥナがまず自分自身の足をその道の上に置かないといけないんだ」


「自分の足……」ノバトゥナがぽつりと呟く。


「だから、ノバトゥナが歩き出す為にも、レグリスは連れて行く。あのコートにどんなに素晴らしい思い出が詰まっていたとしても、それは現実じゃない。これから歩む道にはならない」


「そう、そうね。……あなたの言う通りよ……」嗚咽で言葉が途切れる。

「……だから、彼のコートは、レグリスの事は頼みます。……あと、ありがとう、リシュ」


 ノバトゥナは両目から溢れた涙を拭うと、優しく微笑んだ。元の表情に戻ったノバトゥナを見て、リシュリオルは安堵し口元を緩めた。


 二人は止まっていた手を再び動かし始め、途中だった昼食の調理に取り掛かった。




 昼食の最中、リシュリオルは食事を終えたら、直ぐに次の異界の扉に向かう事を皆に伝えた。先程、ノバトゥナに言い放った言葉は己に跳ね返り、リシュリオル自身も早く前に進むべきなのだと感じていた。


「そうか……。短い時間だったけれど、君と再会できてよかったよ」

「また何処かで会える事を祈っています。リシュ」


 ラトーディシャとリアノイエが手のひらを差し出す。リシュリオルは二人の手を順に握り締めた。


「二人はこれからどうするんだ?」 

「もう少しこの街にいようと思う。自分の生まれた場所に一度戻ってみたくてね」

「そうか……。どうか気を付けて」

「そっちもね」


 ノバトゥナは無言で三人のやり取りを見つめていた。リシュリオルはそんな彼女の元に歩み寄り、身体を強く抱き締めて言った。


「ありがとう、ノバトゥナ」

「こちらこそ。……元気でね」

「うん、いってきます」


 リシュリオルはノバトゥナの身体から離れると、騒がしく喚く精霊達を連れて玄関へ向かった。この家から出る為の道程はとても短い筈なのに、その時は長く遠く感じた。外に出る為の扉も酷く重かった。だが、ここで立ち止まる事はできない。


「さようなら。またいつか」


 飾り気の無い別れの言葉を残して、彼女はノバトゥナの家を発った。




 リシュリオルは異界の扉へ向かう為、遠くに見える街の景色をぼんやりと眺めながら、何も無い雪原を歩いていた。レグリスの姿が視界に入り込み、この精霊の力の事を思い出す。


「レグリス、お前の力を試してみたい」

「いいだろう。俺の力、その全身で存分に味わうがいい」

「態度が急に変わりましたね」アリゼルがぼやく。


 リシュリオルが偉そうに両腕を組むレグリスの姿を眺めながら、精霊の力を引き出した。すると、全身に凄まじい力が漲ってくるのを感じる。


「身体を動かしてみるがいい」

「分かった」


 高慢なレグリスの言う通り、軽く雪の上を走ってみる。すぐに感じたのは、身体全体が驚くほど軽い事だった。


 膝より下が雪の中に埋まっているというのに、両足を軽く動かすだけで、積もった雪が吹き飛んでいく。


 これが、本当に自分の身体なのだろうか。この世で最も速い生き物になったのではないかと錯覚する。


 あまりに新鮮な体験をしたせいか、リシュリオルは気分が良くなって、アクロバティックな動きで広い雪原を駆け回った。

 

「まるで、ディイの異界渡りの力だ」アリゼルは激しく動き回るリシュリオルを見て、独り呟いた。


 リシュリオルはそのままレグリスの力を試しながら、異界の扉へ向かった。本来なら数時間は掛かる雪原越えは、三十分程で終わってしまった。

 

 異界の扉の気配は、竜によって氷漬けになってしまった隣の街から漂っていた。


 そこはリシュリオルが生まれた街。ここで過ごした記憶は一つも覚えていないが、彼女の本当の故郷はこの街だった。そして、彼女の本当の名前もこの氷の中に埋もれている。

 

 リシュリオルがこの街に足を踏み入れたのは、これが初めてであった。話に聞いていた全てが止まってしまった世界は、アリゼルが氷の竜を倒したおかげか、少しずつその氷を溶かし始めている。


 何も知らない街の筈だったが、何故か胸の奥から懐かしさが溢れてくる。故郷とは、記憶ではなく、その身に深く刻まれる物なのだろうか。


 リシュリオルは街を詳しく調べる事はしなかった。できるだけ早く、異界の扉に近づく事のできる道を選んで足を進めた。何かの拍子で、自分の知らない『自分』を見てしまう事が怖かったからだ。


 彼女の素性を知らないレグリスは何も言わなかったが、アリゼルは何か言いたげにリシュリオルの顔色をちらちらと伺っていた。だが、結局、最後まで軽口の一つも口にしなかった。


 異界の扉の前に辿り着く。自分が生まれた街の見知らぬ家の扉。


 扉の近くの地面に一輪の花が咲いていた。雪解けを告げる黄色い花。この世界の冬はもう終わるのだ。


 進まなければいけない。冬を越えて、春へ向かう為に。


「行こう、次の世界へ」リシュリオルは振り向いて言った。

 

 精霊達が頷く所を見ると、リシュリオルは扉に手を掛け、新たな世界へと旅立った。

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