新生
リシュリオルは街まで下りてくると、ノバトゥナの家には戻らず、街中を散策することにした。どうせ、丘の上にいる二人が街まで戻ってくるには時間が掛かる。その合間を縫って、朝にできなかった事をしてしまおうと思いついたのだった。
ノバトゥナも散策に付き合ってくれた。以前とは大きく変わったこの街の案内をしたいらしい。取り敢えず、小腹が空いたと伝えると、近くのパン屋を紹介してくれたので、そこに寄ることにした。
「食べたばかりなのに、また食べるの?」とノバトゥナに呆れた口調で言われたが、欲望に際限は無いのだ。食欲とて同じ、仕方の無い事なのだ。
パンを一杯に詰め込んだ紙袋を片手に持ちながら、ノバトゥナに街を案内してもらっていると、街の住民達が何度も彼女に話し掛けてくる。彼らの言動からは、ノバトゥナに対する並々ならぬ敬意の念を感じ取れた。
氷の竜討伐の先導者として戦った彼女は、この街の人間にとっては英雄的存在なのだろう。竜との戦いを終えた後も、戦いで疲弊していた街の復興に努めていたという。
街の人々と笑顔で話すノバトゥナを見て、リシュリオルは彼女のような素晴らしい人物が自分の故郷にいてくれた事に感謝した。
リシュリオルは近くにあったベンチに腰掛け、ぼさぼさになってしまった自分の髪をいじりながら、ノバトゥナが話し終えるのを待っていた。しばらくして、住民達から解放された彼女が駆け寄ってくる。
「ごめんなさい、待たせたわね」
「いいよ。別に」
「ノバトゥナさんは人気者なんですねぇ」唐突に現れたアリゼルが、人を導くノバトゥナの資質に感心する。
「でも、忙しくって大変よ。……アリゼルが代わりになってくれない? 代わってくれるなら、立派な銅像を建ててあげるわ」
「訳も分からず、奉られるのはもう懲り懲りです。それに、あなたでなければ、この街を導く事はできませんよ」
「そんなこと無いわよ」
ノバトゥナは謙遜したが、リシュリオルはアリゼルの言う通りだと思った。今の活気溢れる街を作ったのは、彼女だ。
「ノバトゥナ、次は何処に行くんだ?」
「そうね、私の職場に行ってみましょうか」
「職場?」
「私、この街の役人なの。大した仕事はしてないけどね」
そんなに謙遜しなくてもいいのに。自身の職場に向かうノバトゥナの背中を見つめながらリシュリオルは思った。
ノバトゥナの職場に向かう途中、リシュリオルは異界の鍵の気配を感じ取った。ノバトゥナに鍵の気配のする場所を伝えると、彼女の職場と同じ方角だと言われた。そして、ノバトゥナの言葉通り、鍵の気配の行く先は彼女の職場である、この街の庁舎へと繋がった。
庁舎に入ろうとすると、入れ違いに一人の男性と鉢合わせる。ノバトゥナの姿に気付くと、男性は被っていた帽子を脱ぎ、丁寧に一礼した。彼の立ち振る舞いや明るく浮かぶ笑顔から、真面目で純朴そうな男、という印象を受けた。
「ノバトゥナさん、何かありましたか? 確か今日はお休みの筈でしたよね?」男性がはきはきとした口調で尋ねる。
「こんにちは、スール。知り合いの子に街を案内している所なの」
「そうだったんですか。あ、そういえば、頼まれていた配管の修理、今終わりましたよ」
「ありがとう。また何かあったら、お願いね」
「はい! あの……」スールと呼ばれた男性が口籠る。
「どうしたの?」
「明後日の夜、もし予定が空いていたら、一緒にお食事でも……」
「……考えておくわ」
「は、はい! よろしくお願いします!」
スールと呼ばれた男性は、一礼すると庁舎から、ノバトゥナから駆け足で離れていった。リシュリオルが離れていく彼の後ろ姿をじっと見つめていると、ノバトゥナが声を掛けてきた。
「さあ、行きましょう。リシュ」
「さっきのは誰だ?」
「スールウェンス。凄腕の修理屋さん」
「ふーん……。食事は行くのか?」
「言ったでしょ。考えておくわって」
「ふーん……」
再びスールウェンスが走っていった方を眺めるリシュリオル。ノバトゥナは扉の前から中々動こうとしないリシュリオルの手を引っ張って、無理やり庁舎の中へと引き入れた。
ノバトゥナは庁舎内で行われる仕事や自分の役割を一生懸命に教えてくれたが、鍵の気配とさっきの男の事が気になり、彼女の話の内容はリシュリオルの頭の中にはあまり入ってこなかった。
「先に鍵を探したら?」話を聞き流していた事に気付かれたのか、ノバトゥナが少しだけ不機嫌そうに言ってきた。
「ご、ごめん。悪いけどそうさせてもらう」リシュリオルは申し訳無さそうに、ノバトゥナの元を離れて、庁舎内の探索を始めた。
それなりの広さを持つこの庁舎の探索には、かなりの時間を要するだろうと考えていたが、鍵の気配の終点は、案外早く見つかった。気配がするのは、頑丈そうな木製の扉が取り付けられた部屋だった。扉に手を掛けたが、鍵が掛かっており、開ける事はできなかった。
リシュリオルはアリゼルに頼んで、ノバトゥナを呼ぼうとしたが、ちょうど良く鍵束を持った彼女がやってきて、その必要も無くなった。
「ノバトゥナ、ここだ。ここから鍵の気配がする」
「私の部屋から?」
「ノバトゥナの部屋だったのか」
「ええ。……異界の鍵は何なのかしら?」
ノバトゥナが鍵束の内の一本を鍵穴に差し込む。ゆっくりと扉を開くと、部屋に入って正面の窓から太陽の光が差し込んだ。その光の中心に、大きな黒い人影が浮かび上がっている。リシュリオルは直ぐにその人影に向けて炎を放つ態勢を作った。
「誰だ! 返答次第では焼き払うぞ!」リシュリオルは人影に対して、警告する。
「俺は……、誰だ? 分からない……。今、生まれたんだ。今、俺の意識が、俺が生まれた」
辿々しく話す人影。宙に浮かびながら、自身の身体を小さく丸めている。今自分に何が起こっているのか理解できていない様子だった。リシュリオルも目の前の人影の言動の意図がさっぱり分からず、手の平に小さな炎を浮かべたまま硬直してしまう。
「リシュ、彼は精霊です。それも、今生まれたばかりの」リシュリオルの隣に並んだアリゼルが、彼女の手の平にそっと触れ、浮かんでいた炎を掻き消した。
「精霊だと」
「ええ、そうです。彼の身体をよく見て下さい。私は甲冑から生まれた精霊ですが、彼は……」
「壁に掛けてあったディイノーカのコートが無いわ」
ノバトゥナが複雑な表情で新生した精霊の姿を見つめる。その精霊の身体は、多少の形状の変化はある物のディイノーカが生前に着ていた黒い軍用のコートでできていた。
「じゃあ、こいつは先生のコートから生まれたのか……」
「そういうことになりますね」
皆、目の前の生まれたばかりの精霊をどうすることもできずに見つめていた。そんな中、リシュリオルは異界の扉が開くのを感じ取る。
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