次の街

『未だ見たことの無い世界へ!』


 そんなリシュリオルの心意気は見事に打ち砕かれた。扉の先にあったのは彼女の故郷、雪の街。その街の丘の上に建つ古びた聖堂だった。


 久方振りの帰郷と言えば確かにそうだが、新たな世界への旅立ちを期待していた彼女にとっては、この帰郷は凄まじい拍子抜けだった。


 聖堂は最後にこの地を訪れた時よりも更に荒れており、床や壁には無数の亀裂が刻まれていた。もう誰もこの場所を管理する人間がいないのだろう。


 特に目ぼしい物も無いので、リシュリオルは聖堂からさっさと立ち去ることにした。忌々しい記憶しか思い浮かばないこの場所に、長居する事は避けたかった。


 聖堂を抜け出し、丘の上から雪の街を見下ろす。遠目だったが、街は以前よりも賑わっているように見えた。そして、未だに街の外れには禍々しい巨大な氷塊が聳え立っていた。


「アリゼル・レガ……。まだ戦っているのか?」


 リシュリオルは、氷の中で今も竜と戦い続けている筈の精霊の名を呟いた。皆を助ける為に独り犠牲になった精霊の事を思い返し、胸が締め付けらた。


「呼びましたか?」


 不意に背後から声がした。聞き覚えのある声。


「懐かしい気配を感じると思ったら、あなたでしたか……」


 リシュリオルが声の主の方へ振り返ると、彼女の視界は黒に染まった。重々しい甲冑の姿が黒い炎を滾らせている。


「どうしたのですか? 私の事を忘れてしまったのですか? 身体は大きくなっても、頭の中身は変わっていないようですねぇ」


 黒い甲冑はケラケラと笑い、減らず口を叩く。飄々とした仕草に言動、全てが懐かしい。忘れる事などあるものか。こいつは……、こいつは!


「アリゼル!」

「ふふ、思い出しましたか。……お久しぶりです、リシュ」

「竜に、勝ったんだな」

「ええ、でなければここにはいない筈でしょう? あそこにあるのは抜け殻です」


 アリゼルは丘の下に見える氷の塊を指差した。

 

「さあ、街へ下りましょう。互いに積もる話はあると思いますが、こんな所で長話はしたくないでしょう?」

「ああ。だけど、その前に……。アリゼル、私に取り憑け。そのスカスカの姿はあまり見ていたくない。それに実体が無い状態はお前も嫌だろ?」


 リシュリオルの言葉を聞いたアリゼルは呆気にとられたように硬直していた。


「……リシュも他人の気を使えるようになりましたか。我が子のように思っていたあなたが、ここまで成長するなんて……。感涙です」


 血も涙も無い筈の鎧姿の精霊が、大げさに涙を拭うような仕草をした。その態とらしいアリゼルの仕草にリシュリオルは苦笑を浮かべた。


「……そういうのいいから」

 



 再びアリゼルの宿主となったリシュリオルは、街に向かって丘を下り始めた。積もった雪を炎で溶かしながら、道を作っていると、彼女はある事に気が付いた。最後にこの世界に訪れた時よりも、雪の量がやけに少ないのだ。その事をふわふわと頭上に浮かんでいるアリゼルに尋ねると、精霊は自慢げに答えた。


「それは、私が氷の竜を葬ったからだと思います。奴が根を張るように大地に巡らせていた翼は、この土地の地脈に蓄積されていたエネルギーを吸い上げていました。地脈からエネルギーが無くなれば、季節は巡らず、永遠の冬が始まってしまいます。ですが、大地に刺さった翼が消えた事で、地脈へのエネルギーの蓄積が再開されて、この土地が元の姿に戻ろうとしているのでしょう。雪が少なくなったのはきっとその現象の一端ですね」


 アリゼルは最後に「全部、私のお陰です」と付け足して話を締め括った。リシュリオルは乾いた笑みを浮かべながら、再び雪を溶かし始めた。


 しばらく、地道な溶雪作業が続いた。その間、リシュリオルとアリゼルは下らない世間話をしながら笑い合った。和やかな雰囲気だったが、街に入る直前、おどけていたアリゼルの声色が変わった。


「……あまり聞くべきではないと思っていました。ですが、やはり聞いておきます。……ラフーリオンさんはどうしたのですか?」


 その問いを耳にしたリシュリオルはぴたりと足を止め、アリゼルの視線から逃げるように街の景色を見つめ始めた。そして、おもむろに彼女は口を開いた。


「……あいつは目的の場所に辿り着けたんだ」

「……そうですか」


 リシュリオルの遠回しな言葉を、アリゼルはすぐに理解した。何も言わないリシュリオルを元気づけるような言葉を掛けようとしたが、力強く歩みを進める彼女の背中を見て、慰めの言葉は必要無いのだと、アリゼルは考えを改めた。


(強くなりましたね)


 アリゼルは雪の舞う宙空に留まり、以前よりも大きくなったリシュリオルの姿を感慨深く見つめていた。

 

「何してる。凄く寒いんだ。早く建物の中に入ろう」


 アリゼルが思い耽っている間に、リシュリオルとの距離がかなり遠ざかっていた。少しだけ苛立ちを含んだ声が聞こえてくる。


「おっと、すみません。すぐにそちらに向かいますよ」


 アリゼルは身震いするリシュリオルの元へと急いだ。




 街の中は、リシュリオルが知る頃よりも、活気に満ち溢れていた。通りには、今までに見たことのない店が数多く並び、道行く人々は皆、幸せそうに笑みを浮かべている。

 

 彼女が知っているこの街は、歪んだ信仰が根付いていた頃と、氷の竜に怯えていた頃の二つしかない。どちらの街の姿も、陰鬱で暗澹とした空気に覆われていた為、様変わりした街の様子には、リシュリオルも驚いた。


「驚きましたか? この街の著しい発展は全て、ノバトゥナさんの指導の賜物だそうです」


 ノバトゥナ。久しい名前を耳にして、彼女と共に氷の竜と戦った時の記憶が蘇る。


「……ノバトゥナ、元気かな?」

「会いに行きましょうか」


 そう言うとアリゼルは、ノバトゥナがいると言う場所に向かって、リシュリオルを先導した。ふわふわと宙を舞うアリゼルに付いて行くと、街の外れの小ぢんまりとした家に辿り着いた。


「ここは……」

「ノバトゥナさんの家ですよ。かつて私とディイもここでお世話になっていました」


 リシュリオルがその小さな家の扉を数度叩くと、中から女性の声が聞こえてくる。


「はい、今行きます」


 その声と数歩分の足音の後、玄関の扉が静かに開かれ、ノバトゥナが現れた。


 リシュリオルは久しぶりの再会による緊張で身体が強張っており、上手く声を発する事ができなかった。


 喉に引っ掛かった声をなんとか吐き出そうとしていると、ノバトゥナの両腕がいきなりリシュリオルの身体を包み込んだ。そして、彼女はリシュリオルを優しく抱き締めながら、耳元で囁く。


「おかえり、リシュ」


 ノバトゥナの優しい声色にリシュリオルは安らぎを覚えた。強張っていた身体も次第に和らいでいく。


「ただいま……」


 ノバトゥナの言葉に呼応するのは、この言葉だけだ。リシュリオルは何気ない二つの言葉のやり取りを終えた事で、初めて自分の帰郷を実感した。

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