独りの旅出
リシュリオルはカルウィルフの部屋を出ると、自分の部屋に纏めていた荷物を取りに行き、その後、ドクターの元へ向かった。
ドクターは受付で新聞を読んでいた。時折、テーブルに手を伸ばしカップに入ったコーヒーを啜っている。
彼はリシュリオルの姿に気付くと、新聞を適当にたたみ、テーブルの上に乱雑に置いた。
「もう行くのか?」ドクターが尋ねる。荷物は隠していたが、彼には全てお見通しの様だ。
「はい。今までありがとうございました」
「礼なんていい。お前達を助けたのも、ただの暇潰しだ……」
しばしの沈黙が流れる。リシュリオルの声がその流れを破る。
「……何も聞かないんですね」
「聞かれたくないんだろ……」
「はい。ありがとうございます」
「だから、礼は――」
ドクターが何かを言い掛けた瞬間、リシュリオルは後ろ手に隠していたマフラーを操って、彼の首元に巻き付けてやった。ドクターは唖然とした顔でいたずらっぽく笑うリシュリオルを見つめていた。
「私の力を使って編みました。これから寒くなりそうなので使って下さい。私からの感謝の気持ちです。問答無用であげます」
ドクターは困った顔で、手に掴んだマフラーの端を見つめていた。
「わかった、俺の負けだ。これは受け取っておくよ。あの二人の事も任せておけ。……それじゃあ、良い旅をな」
「はい……。本当にありがとうございました。いつかまた、この世界を訪れる事があったら、真っ先にここに来ます」
リシュリオルは診療所の扉を開けっ放しにして、受付の方へ振り向いた。そして、深々と頭を下げ、ドクターに別れを告げた。
リシュリオルの姿が診療所の外に消え、扉がゆっくりと閉まっていく。ドクターは受付のカウンターから、その様子を最後まで眺めていた。
診療所を飛び出したリシュリオルは、直ぐに次の異界の扉へと向かった。扉の気配がするのは、博識な異界渡り、ルギオディオンと出会った巨大書庫からだった。
リシュリオルの身体は枷から解き放たれたかのように軽かった。久しぶりの異界の旅に彼女の心と身体がときめいていた。街の人々の視線も気にせず、巨大書庫へ向かう大橋へと、全力で走り抜けていく。
肌寒く吹き抜ける風、薄雲の中にぼんやりと浮かぶ太陽。駆ける身体に触れる空気の流れが、空から降り注ぐ微かな日差しの暖かさが、リシュリオルを更に加速させる。
大橋には一瞬で辿り着いた。元々、身体能力の高いリシュリオルだったが、自分でも信じられぬ程の驚異的な速度で、橋のたもとまで来れてしまった。
まだ体力に余裕はあったが、リシュリオルはゆっくりと、この世界の景色をその目に焼き付けながら、橋を渡ることにした。
橋の下にある巨大な水路が波打っているのが見える。深青の緩やかな水の流れは踊る心を穏やかに鎮めてくれた。
橋の中腹、遮る物が何も無いせいで、吹きつける風は冷たく激しかった。道行く人々は皆、寒さに身体を震わせている。リシュリオルもこの突き刺す様な寒さには流石に堪えた。ゆっくりとした歩みを小走りに変え、さっさと橋を渡り切ってしまった。
橋を渡り終えると、巨大書庫へ通ずる大きな門がリシュリオルの目の前に立ちはだかった。
異界喰らいと戦うまで、何度この門を通り抜けたことか。橋を渡り、門をくぐり、巨大書庫へと通った日々の情景が鮮明に思い出される。ルギオディオンやリーリエルデと別れてから、一ヶ月も経っていなかったが、温かい懐かしさが胸の奥から込み上げてきた。
少しだけ目元が潤んだが、力強く書庫の入り口に歩みを進める事で、流れそうになった涙を封じ込めた。
巨大書庫の内部も他の街の景色と変わらず、大量の本とそれを整理する人々でごった返しになっていた。
外の空気で冷え切った身体を温めるついでに、左右に並ぶ部屋の中身を覗きながら、ゆっくりと廊下を歩いた。
異界の扉へ向かう途中、何人か顔馴染みの職員と出会う。リシュリオルは軽い挨拶をするだけで、この世界から離れることは伝えなかった。彼らの日常から、自分という存在を静かに消し去りたかった。
リシュリオルは異界の扉の気配を辿っていく内、巨大書庫の上階に足を踏み入れていた。この書庫の元々の姿は古い城である為、建築物としては非常に背が高く、上階の窓からの展望もその高さに見合う素晴らしい物だった。巨大書庫を囲む水路の全体像や、各地に建っている象徴的な建築物を望むことができた。
書庫内を歩き回りながら、外の景色を眺めていると、いきなり雪が降り始めた。リシュリオルがこの世界で雪を見るのはこれが初めてでは無い。しかし、何故かは分からないが、彼女の故郷の情景が唐突に脳裏に蘇った。
リシュリオルはしばらく懐かしい故郷の姿を頭の中で思い浮かべていたが、ふと我に返り、再び異界の扉の気配を追い始めた。しかし、すぐにその足取りは止まってしまう。目の前に『立入禁止』と書かれた看板が掲げられた鉄扉が現れ、次の異界への道を阻んでいたのだ。
一瞬だけ扉の先へ進むのを躊躇ったが、リシュリオルは「異界渡りなら大丈夫だろ」と、直ぐに開き直り、鉄扉を勢いよく開いた。
扉を開けた瞬間、凄まじい音と共に強い吹雪が流れ込んできた。扉の先には、巨大書庫の外壁を伝う狭い通路が見える。そして、通路の先にある建物の壁には、直前に開けた物と同じ形の鉄扉が取り付けられていた。
リシュリオルは風雪に身体を煽られながら、なんとか通路の先にある扉の前へと辿り着くことができたが、一度だけ薄く積もった雪に足を滑らせそうになり、背筋が凍る思いをした。外壁からの景色はきっと素晴らしい物だったのだろうが、リシュリオルにはそれを眺める余裕は無かった。
扉の前に立ったリシュリオルは吹雪から逃げるように建物の中に入り込んだ。そして、衣服に付いた雪を払い落としながら、「この通路は決して異界渡りでも無事に済むとは言えない」と、先程とは正反対な意味合いの独り言を呟いた。
危険な思いをして、やっとのことで辿り着いた建物は小さな教会のような場所だった。古い時代、この城が現役だった頃の宗教施設の遺跡か何かだろう。リシュリオルが辺りに視線を巡らせていると、立派な装飾が施された木製の扉が目に入った。
異界の扉。リシュリオルにとって、この扉との対面は久しぶりの事だった。
扉に歩み寄りながら、この世界で出会った人々へと想いを馳せた。別れはとても悲しく寂しい物だったが、彼らがくれた汎ゆる思いは、彼女の意志として受け継がれ、命を繋ぐ糧となった。
そっと、目の前にまで近づいた扉に手を触れる。これから起こる出会いを予感しながら……。
次の世界への扉が開かれる。リシュリオルは新たな旅立ちの一歩を力強く踏み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます