第十四章:彼女は往く
これから……
これは私の心、私の記憶。遂に異界喰らいとの戦いが終わった。今、私は傷ついた身体を休めている。一緒に戦いを生き抜いた仲間達と共に。しかし、ずっと一緒に居たかった筈の彼女の姿は、私の傍には無い。
これは私の心、私の記憶。私はまた旅に出る。まだやり残している事があるのだ。それを終わらせなければならない。
大きな本棚がトラックに乗せられ、運ばれていくのが見える。トラックの運転手は道を遮る人々に罵声を浴びせていた。
それも、いつもの光景になってしまった。ここに来た当初は、この街の人々に対して、苛立ちを覚える事が多かったが、今ではもう右から左に流れるような、ただの日常の景色に変わっていた。脳裏に日々の光景が浸透する程、一つの世界に留まったのは、リシュリオルにとってはここが初めてだった。
大きな溜め息が出てしまう。異界喰らいとの戦いの後、緊張感の無い毎日が続いているからかもしれない。
リシュリオルが受けた傷はカルウィルフやネイリットよりも比較的浅く、直ぐに癒えてしまった。傷が癒えた後、彼女はドクターと一緒にカルウィルフとネイリットの看病する日々を繰り返していた。平和だったが、少し退屈でもあった。
再び溜め息が出そうになったが、扉をノックする音がそれを止めた。
「どうぞ」
リシュリオルが扉に向かって言うと、気の抜けるような音を立てながら扉が開かれた。いつも通りの情けない音だった。そして、いつも通り扉の向こうにいたのは、よれた白衣を着こなし、覇気のない顔を浮かべるドクターだった。
「リシュ、買い物に行ってきてくれないか?」ドクターがメモを渡してくる。
「分かりました」ドクターの手からさっとメモを受け取ると、リシュリオルは街へ出掛ける準備を整えた。
「二人の具合はどうですか?」リシュリオルはここ最近聞き続けているいつもの質問をドクターに投げ掛けた。
「最初に比べれば、だいぶ良くなったな」ドクターからはいつもの返事が返ってきたが、リシュリオルは既に二人の傷が殆ど治りかけている事は分かっていた。
ドクターはリシュリオルの質問に答えると、大きなあくびをしながら、扉の向こうに消えてしまった。
(出掛ける前に、二人の個室に行ってみるか)
思い立って、リシュリオルはまずネイリットの部屋に向かった。しかし、彼女の個室の扉を何度ノックしても、扉が開く気配は無かった。それどころか部屋の中からは物音一つ聞こえてこない。
仕方なく、カルウィルフの部屋に向かうリシュリオル。彼の部屋の扉の前に立った時、中からカルウィルフとネイリットの声が微かに聞こえてきた。どうやら、ネイリットはカルウィルフに何か用があったらしい。
「――怪我が完全に治ったら、皆で一緒に記者として働かない? 私の事務所に二人の事を紹介するよ」
「異界渡りの記者か……。リシュは何て言うかな。それに姉さんの事は……」
盗み聞きをするつもりは無かった。だが、リシュリオルは二人の話を耳にして、扉を開けるのを躊躇ってしまい、しばらく扉の前で聞き耳を立てていた。
「記者になれば、アトリラーシャの事も探せるよ。事務所にはいつだって情報が飛び交ってるんだから、きっと見つけられる」
「確かにそうかもしれないな。それに、案外俺に合っている仕事かもしれない」
「きっと合うと思うよ! あとでリシュにも聞いてみないとなぁ……」
リシュリオルは既にカルウィルフの部屋から離れていた。二人の楽しそうな話し声は彼女が廊下を歩いている時にも聞こえてきた。
(私にはやることがまだ残ってる。カル、ネイリット。残念だけど一緒には行けない)
リシュリオルは廊下を足早に通り過ぎ、診療所を出た。
リシュリオルは街の景色を眺めながら、ドクターの頼まれ事を済ませる為、駅前の店へと向かっていた。そして、前にも同じような事があったなと、既視感を覚えていた。
外の空気は冬の訪れを感じさせる冷たさを帯びていた。そんな季節の変化以外は何一つ変わっておらず、見慣れた街並みが続いている。
リシュリオルの瞳に映る街の情景は、異界喰らいという脅威が存在していた事など微塵も感じさせなかった。それでも、一時はこの街も混乱の渦の中にあった。リシュリオル達の手により、大量殺人鬼である異界喰らいの正体が発覚した事で、嘘と真、両方の情報が街の至る所に飛び回っていたのだ。
しかし、事件から数週間経った今となっては、街の人々の顔に浮かんでいた恐怖の表情は消え去っていた。愛しい本を手に持って、平然と街中を歩く住民達の姿は、もうあの事件の事を忘れているかのようだった。
リシュリオルは道行く人々の様子を、彼らに気付かれぬように伺いながら、目的地の駅前まで歩き続けた。案の定、駅前に辿り着くまでにすれ違った人々の中にも、異界喰らいの名を口にする者は誰一人としていなかった。
リシュリオルは駅前の店に入ると、さっさと買い物を済ませた。店を去ろうとする間際に、顔馴染みの店員から「また来てくれよ」と声を掛けられたが、リシュリオルは軽く会釈をするだけで、直ぐに診療所に戻る道へと足を向けた。
(残念だけど、これが最後です)リシュリオルは心の中で店員に向かって呟いた。
診療所への帰り道、街の景色をまた眺める。楽しそうに話しながら歩く家族。木陰のベンチでだらだらと本を読む青年。愛の言葉を囁き合う男女。
何も起こらぬ平穏な生活、闘争なき平和の世界。
それが素晴らしいものだとリシュリオルは思う。だが、今の彼女に必要な物は熱い葛藤と新たな冒険だった。それを求める心は、一つ所に留まれぬ異界渡りの性なのだと、自分の宿命なのだと、そう彼女は考えた。
リシュリオルは診療所の扉を開ける瞬間、カルウィルフとネイリットへ、自身の新しい旅の目的について話すことを決意した。
ドクターは受付のカウンターに寄りかかって眠っていた。リシュリオルが勢いよく扉を閉めてやると、ビクッと身体を震わせながら目を覚ました。
「おう、おかえり」
「はい。……頼まれた物、買ってきました」
「ありがとう。あぁ、そこらに置いといてくれ」
リシュリオルはドクターが指差したテーブルの上に荷物を置き、カルウィルフとネイリットに話をする為、二人の部屋が並ぶ廊下へ向かった。
廊下に足を踏み入れた時点で、カルウィルフの部屋からネイリットの笑い声が聞こえてきた。まだ仲良くお話しているのか。リシュリオルは呆れ気味に溜め息をつきながら、カルウィルフの部屋の扉を数度叩いた。
二人の慌てたような声が聞こえた後、しばらくして「どうぞ」とカルウィルフのやけに落ち着いた声がリシュリオルの入室を許可した。リシュリオルは軋んだ音を立てる扉をゆっくりと開けていく。
「リシュ、どうしたんだ?」
「ちょっと二人に話があるんだ」
リシュリオルが用向きを話した途端、ネイリットは手を叩きながら元気よく言った。
「実は私からも話があるの! これからの旅の事なんだけど――」
「私は皆とは行かない」
ネイリットの言葉を遮るように、冷たくも暖かくもない声色でリシュリオルは言った。有無を言わせない突然のリシュリオルの否定の言葉を聞き、二人は驚いた顔で疑問の視線を向けてくる。
「……どうして?」ネイリットが当然の質問を口にする。
「前から決めていたんだ。少し一人で旅をしてみようって。この所、色々な事が起こりすぎた。だから、自分の気持ちを一人で整理しようと思うんだ」
嘘だった。本当は違う。二人を異界喰らいの呪いから、もう解き放ってやりたいのだ。リシュリオルの真の目的は奴の残香を全て消し去る事。未だ生きているであろう三人の男達の息の根を止める事だった。
「そう……」ネイリットは寂しそうにうつむいた。
「そんな顔しないでくれ。今生の別れって訳じゃないんだ。また何処かで会えるよ」リシュリオルは諭すような優しい声でネイリットを慰めた。
「いつ、ここを離れるつもりなんだ?」ずっと黙り込んでいたカルウィルフが尋ねてきた。
「今すぐにでも。もう二人共、殆ど怪我は治りかけてる筈だ。だから、私がいなくても大丈夫だろ?」
「姉さんと、イルシュエッタさんは?」続けて投げかけられてきた問いにリシュリオルは一瞬硬直する。
「……二人の事も一人で旅をしながら探してみるよ」
「そうか……。俺はネイリットと一緒に記者をやろうと思ってるんだ」
(知ってる)心の中で呟くリシュリオル。
「もし、リシュとまた会う機会があった時に、まだ二人の事を見つけられていなかったら、互いの情報を共有し合おう。俺も、実の姉とあんな別れ方をするのは嫌だからな」
「うん。ありがとう、カル。それじゃあ二人共、またいつか会おう。それと……」リシュリオルは扉に向かって歩いていく。そして、扉を閉める間際、彼女は隣り合う二人に向かってニヤリと笑いながら言った。
「……お幸せに」
「な、何を――」
カルウィルフはクスクスと笑うリシュリオルを引き留めようと立ち上がったが、扉はバタンと大きな音を立てて閉められてしまった。カルウィルフがそれとなくネイリットの方へ振り向くと、彼女は満更でもない様子で、右腕をカルウィルフの方へと真っ直ぐに伸ばし、親指を立てながら、嬉しそうに笑っていた。
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