全てはこのために

 地下水路を駆け抜けるアトリラーシャ。彼女は怪物へと変貌したシェエンバレンを追いかけていた。


 今、アトリラーシャの心は透き通る硝子のように澄み切っていた。かつて抱いていた異界喰らいへの恐怖は消え去り、硬い意志と研ぎ澄まされた闘志が彼女を支えていた。


 水路を走り続けていると、巨大な照明が天井に取り付けられた広場が現れた。その広場の中心には怪物が激しく蠢いており、何かの肉を噛み千切っていた。


「くそっ! 足りない、この程度じゃあ足りないぞ! どうしてこうなるっ! 能無しの役立たずは死体の処理をミスって、それが街の連中にバレやがるし、死に損ないのクソ姉弟共には絡まれる! ……この街に来てから、最悪な事ばかりだ」


 異界喰らいの姿は、先程カルウィルフを襲っていた巨大な怪物から、獣人の姿へと戻りつつあった。怪物の巨体を構成していた赤黒い肉塊が破片となってそこら中に飛び散っている。


 やはり、カルウィルフが言っていた通り、あの怪物の姿を保つには、相当の体力を必要とするらしい。


「異界喰らい! 父さんと母さん、そして、叔父さんの魂の安息の為に、ここでお前を仕留める!」

 

 アトリラーシャは弟から受け継いだ叔父の刀を鞘から抜き去り、シェエンバレンの元へ走った。


「鬱陶しいクソアマがっ! 俺が力を使い果たしていると思っているのか?」


 シェエンバレンの肉体から、再び赤黒い肉塊が吹き出す。そして、獣人の身体を包み込み始め、シェエンバレンの全身は再び異形の鎧に覆われた。


「最高の状態とはいかないが、おまえを殺すだけなら、これで充分だ!」

 

 シェエンバレンの身体は、あの病的なおぞましさを持った怪物の姿と比較すると、随分とスマートで、その形は人に近かった。だが、無数の眼球を乗せた気色の悪い頭部は、サイズを落としながらも顕在していた。


 アトリラーシャは、新しい形に変貌したシェエンバレンに向け、数本の小さなナイフを投げた。


 ナイフはV字型の隊列を組みながら、シェエンバレンの周囲を旋回し始める。ナイフの編隊は少しずつ分かれていき、あらゆる方向から、シェエンバレンの胴体や頭部へと突き進んだ。


 シェエンバレンは身動ぎ一つせずに、その身に迫るナイフを肉の鎧で受けきった。


 ナイフはシェエンバレンの身体に深々と突き刺さったが、すぐに新たな肉が傷口から湧き出し始め、痛手を与えることは適わなかった。傷口から吹き出す肉塊の勢いによって、刺さったナイフもシェエンバレンの身体から吐き出されるように抜けてしまった。


(やはり、あの肉壁を貫通ることはできない!)


 シェエンバレンが長剣のように伸びた両手の爪を振るい、アトリラーシャに襲いかかる。爪の連撃による攻勢は凄まじかった。一本の刀でその攻撃を受け切ることはできず、アトリラーシャは肩と脚をその爪に切り裂かれてしまった。


 シェエンバレンは闇雲に爪を振るっている訳ではなく、相手にとって攻撃を受け難い方向を見極めながら、効果的な連撃を行っていた。


 巨大な怪物と獣人の間を取ったような姿をした、今のシェエンバレンは決して力を使い果たし、余力で戦っている状態ではない。完全なる怪物の姿では消えてしまう知性が生み出す、ずば抜けた戦いのセンスと彼を包む肉塊の鎧が生み出す、優れた身体能力は、むしろ、一対一の戦いでは最強と言えるかもしれない。


 しかし、アトリラーシャも負けてはいなかった。激しい爪による攻撃の嵐から、一旦逃れると、彼女の衣服の下から細かい無数の煌めきが、煙のように湧き出した。これは、カルウィルフを助ける際にも使った、アトリラーシャの戦術だった。


 アトリラーシャの周囲を取り囲んでいた煌めきの塊がシェエンバレンの身体に纏わりつく。シェエンバレンは鬱陶しそうに煌めきの波を両腕で掻き分け、アトリラーシャに接近していく。彼女の目の前まで近づくと、シェエンバレンは大きく息を吸い込み、勝利を確信したかのように叫んだ。


「今度こそ終わりだ! おまえの臓物をばら撒いてやる!」鋭い爪を備えた腕が振り下ろされる。だが、アトリラーシャはそれを避けようとはせず、シェエンバレンの縦に割れた口元をじっと見つめていた。

「今、飲み込んだよね」

「何?」シェエンバレンの腕の動きがピタリと止まる。


 直後、ぶしゅっという空気が抜けるような音と共に、シェエンバレンの腹部に小さな穴が空いた。彼は口から血をばら撒きながら、何が起こっているのか必死に考えているような素振りを見せた。


 アトリラーシャの服の下から現れた煌めきは極小の刃の集合体だった。一つ一つの力は弱くても、それが塊となって集まると、凄まじい速度で対象を切り刻む大きな刃となる。異界喰らいの腹部に空いた穴は、小さな刃達が呼吸をする隙に体内へと入り込み、内側から突き破ることでできた物だった。


「さっきの小さい光か? 俺の口から入り込んだのか?」


 シェエンバレンが自分の腹に空いた穴を見つめながら狼狽えている。アトリラーシャが戦いを開始してから、初めて見る異界喰らいの動揺だった。彼女はこの傷穴が勝利へと繋がる大きなきっかけになると確信した。しかし。


「しかし、俺はまだ死なんぞ。この程度の傷ならすぐに修復できる」シェエンバレンの笑声と共に腹に空いた穴はすぐに塞がってしまった。


(あの程度の傷では駄目なんだ。なら、もっと大量の刃を奴の腹の中に送り込むだけ!)


 アトリラーシャは煌めく小さな刃達を操り、シェエンバレンへと向かわせる。だが、相手もただ一方的にやられるような愚かさは持っていない。シェエンバレンは大量の胃液をばら撒き、刃の塊に衝突させた。アトリラーシャの放った刃の半分ほどが空中に溶け消えていく。


(さっきの傷が浅いのは、胃液が邪魔をしていたせいか。とても小さな刃だから、体内に入れたとしても、奴の胃袋に到達した瞬間に刃は溶けてしまうんだ)


「だけど! 残った刃を全てぶち込めばぁ!」


 アトリラーシャの叫びと共に周囲に浮遊していた刃達が、迫り来るシェエンバレンの口の中へ高速で突き進んでいく。圧倒的な密度を持った刃の集合体が激しく動き出すのを目にした瞬間、シェエンバレンは力強く口を閉じた。だが、彼の強靭な両顎もありとあらゆる方向から迫る大量の刃の前には無力に等しかった。


「内側から突き破るっ!」


 シェエンバレンの体内に入り込んだ刃達が手榴弾のように爆発する。その凄まじい破壊はシェエンバレンの身体を破裂させ、血肉の雨を降らせた。血飛沫が霧となり、アトリラーシャの視界を遮る。


「終わった…………。やっと…………」

 

 安堵するアトリラーシャ。全身の力が抜けていた。空中に飛散した血飛沫の向こうには、弾け飛んだシェエンバレンの身体の一部がぼやけて見える。アトリラーシャはおもむろに歩みを進め、弾け飛んだシェエンバレンの残骸に近づいた。


 その残骸がはっきりと目に映る距離まで近づいた時、アトリラーシャの背筋は凍りついた。彼女の予想を越えるような事態が目の前で起こっていたのだ。


 シェエンバレンは生きていた。上半身の殆どが吹き飛んでいたが、その断面を赤黒い肉の塊が激しく蠢き、元の形に戻ろうとしている。


 余りにも異常な生命力を目の当たりにしたことで、アトリラーシャの足は竦んでしまった。その隙を突いて、シェエンバレンの新しく生まれた両顎が彼女に襲いかかる。


 アトリラーシャは咄嗟に身を翻し、異形の口から逃れようとしたが、間に合わなかった。シェエンバレンの両顎は彼女の左腕を容易く噛み千切った。


 アトリラーシャの身体は左腕を失った事で、大きく体勢を崩し、力無く倒れた。


(腕が……。痛い。どうして。なんで奴は生きてる。痛い。血が止まらない。なんで――)


 アトリラーシャは左腕を噛み千切られた痛みで錯乱状態に陥った。自分の身に起こっている状況を理解できていなかった。


 シェエンバレンの身体の再生が終わり、彼の身体は元の姿に戻っていた。彼はアトリラーシャの左腕を喰らったことにより、歓喜の雄叫びを上げた。


「ウオオオォォ! オオオオオオオオオォォォォォッ!」


 地獄の底から吐き出されるような叫声を耳にし、アトリラーシャの心は悪逆と絶望の海に呑まれた。全身を巡る激痛と恐怖で目の前の怪物を直視することができなかった。シェエンバレンの狂気に満ちた歓喜の声が地下空間に幾度となくこだまする。


 勝利の興奮が収まったのか、シェエンバレンは落ち着きを取り戻し、地面に倒れ込むアトリラーシャを見下しながら、彼女の敗因を嬉々として語り始めた。

 

「おまえは俺の腹の中を狙っていたよなぁ? 俺の胃袋は力の源、俺が生まれた世界で手に入れた最高の人工臓器。こいつを壊されたら、俺も流石に死んじまう。だから、俺は体内の構造を変えた。上半身が吹き飛んでも壊されないように、胃袋の位置を変えたんだ。傍から見たら気付かんだろうぜ、くくくっ。……そして、おまえはまんまと俺の罠に引っ掛かってくれた。こんなに上手く物事が進むと笑いが止まらないぜ。……ははははははははっ!」


 シェエンバレンの笑声が響く。その耳障りな雑音に、アトリラーシャの意識は今にも掻き消されそうになる。


「俺をここまで追い詰めたおまえには敬意を評して、とっておきの『プレゼント』をくれてやる。おまえの仲間の料理ショーだ。じっくりと、ゆっくりと仲間が解体されていく様子を見せてやるよ。そして、おまえの仲間の指を一本ずつ喰わせてやる。特別だぞぉ、感謝しろよぉ。くくく、くくくくくくっ!」


 惨忍で残虐。非道で邪悪。シェエンバレンの内部にある、常人には計り知ることもできない暗黒の精神は、一体何処から生まれたのだろうか。彼は人の範疇を超えた本物の悪魔なのではないだろうか。しかし、今のアトリラーシャにとっては、そんな事はどうでも良かった。


 ただ、目の前の仇敵を倒す希望が生まれた事の方が余程大切だった。誰が人だとか悪魔だとか、そんな事はどうでも良い。


「プレゼント……。私が生まれた日……」

「何だ?」


 アトリラーシャの弱々しく小さな呟きを聞く為に、シェエンバレンは笑い声を抑え、彼女の側に近づいた。


「せっかく貰ったのに、……ずっと使えずにいて、……袖の中に隠していた」

「……イカれたのか? この女」


 シェエンバレンの嘲笑が頭上から聞こえてくる。彼にとってアトリラーシャの言葉は全て、死に際の戯言にしか聞こえなかった。


「皆と……出逢うことができてよかった。……この出逢いも、運命も……。きっと……『全てはこのために』」


 アトリラーシャはシェエンバレンの腹の中に漂う物へと最後の力を送り込んだ。その微かな命の炎を使って。


 残っている力を振り絞って放たれた一撃は、シェエンバレンの胃袋を内部からばらばらに引き裂いた。


「なん……だ……?」


 シェエンバレンは何が起こっているのか理解できぬまま、その場に倒れ込んだ。醜い怪物の姿は次第に人の形へと戻っていく。


 地面に倒れたシェエンバレンの腹から数本のナイフが勢いよく飛び出し、地下水路の壁に突き刺さった。そのナイフはアトリラーシャの誕生日にカルウィルフから貰ったプレゼントだった。しかし、彼女への贈り物はこのナイフだけではない。


 弟がくれた純白の輝きを持つナイフ、最高の切れ味を今、この目に見せてくれた。


 初めてできた親友、彼女がくれた薄紫の布はこの時までナイフの鋭さを保ってくれていた。


 叔父がくれた丈夫な革のケースはナイフが異界喰らいの胃の中に行くまでの間、胃液から守ってくれた。


 いつの間にか、アトリラーシャの両目からは涙が流れていた。その涙は、勝利の喜びからくるものでも、復讐を叶えたことによるものでも無い。己を救ってくれた人々との出逢いと繋がりを思う涙だった。


(私を取り巻いている、汎ゆるものに感謝します)


「ありがとう……」

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