ある少年

 ある少年がいた。彼はこの世に生まれ落ちた時から、病によって食事をする事ができず、人が生きる為に必要な物は全て、手足に着けられた沢山の管から取り入れていた。


 少年はある日、両親に病を治す為と言われて、高名な医師がいるという病院へと入院させられた。入院生活が始まると、いくつもの検査と大量の薬物を投与される日々が続き、彼の青春の時間の殆どが苦痛に塗れた医療行為に費やされた。


 とても苦しく辛い時間だったが、少年は「いつか楽しく食事ができるんだ」と自分を奮い立たせながら、闘病生活を過ごした。そして、長い準備期間を経て、遂に本格的な手術の日が決まった。


 手術前日、少年が病院の中庭を散歩をしていると、変わった服装の男が地面に俯きながら、ベンチに座っているのを見つけた。酷く落ち込んでいる様子で、顔色は青ざめていた。


「あんた、どうしたんだ?」少年は好奇心から、男に話し掛けた。

「一緒に旅してきた相棒が死んじまったんだ……」男は俯いたまま、少年の顔も見ずに答えた。


 男は明らかに心を痛めていた様子だったが、少年は彼に一欠片も気を使うことはせず、話し掛け続けた。だが、男は遠慮の無い少年の問いに躊躇うことなく答えた。男との会話から、彼は『異界渡り』という別の世界から来た人間であることが分かった。そして、少年は男の話す異界の旅というものに、すぐに憧れを覚えた。


 男が自分の素性を一通り話し終えると、今度は男の方から少年に尋ねてきた。その頃には男は地面から視線を上げ、少年の顔を見つめていた。


「お前はどうしてこの病院にいるんだ?」

「病気だからだ。それ以外でここにいる理由なんか無いだろ?」少年は真っ白い病院の壁を見上げる。


「どんな病気だ?」

「何も食えない。でも、明日の手術で食えるようになる」自信に満ちた表情で、少年は言った。

「そうか……。頑張れよ」男は弱々しく励ましの言葉を送った後、再び視線を地面に落とした。


「もし……」少年がぽつりと呟く。

「もし、俺の手術が成功したら、あんたの旅に俺を連れて行ってくれよ」


 少年の言葉を聞いて、男は何も無い地面を眺めるのを止めて、顔をさっと上げた。


「……本気か? お前にも家族や友達なんかがいるだろう」

「友達なんかいないさ。生まれた時からこの病院に一人だ。両親はいるが、二人共俺のことなんか忘れてる。面会にも久しく来てない」


 男の目に映る少年の表情には寂しさや悲しみではなく、激しい怒りに満ちているように見えた。拳を強く握りしめ、身体を震わす少年の姿を見て、男は物悲しさを感じた。そして、生まれたときから過酷な環境に置かれている少年の事を同情した。


「……いいだろう。お前を連れて行ってやる」

「本当か!」


 男が少年の同行を許すと、先程の少年の怒りは、満面の笑みへと変わった。


「だが、両親とはしっかり話をつけておくんだ。それが俺に付いてくる条件だ」

「分かった。絶対に連れて行けよ。絶対にだぞ!」


 子供っぽく喚き立てる少年を見て、男はくすりと笑った。傷つき、枯れ果てていた心が仄かに潤った。


「じゃあな」少年が手を振りながら、病院の中に戻っていく。

「おう」男も手を振り返してやった。


 男と少年は、明後日の朝にこのベンチの前で再び会うことを約束して別れた。男は少年と次に会うのが、やけに楽しみだった。


(寂しいのか俺は。らしくもない)


 男は自分が思っているよりも、弱い心を持った人間であることに気付き、呆れて笑った。




 当然の運命であったかのように、少年の手術は成功した。手術後、翌日の朝に男は少年と出会ったベンチの前で、彼を旅に連れて行くことを改めて伝えた。


「お前を連れて行くのはいいが、条件の事は覚えているな?」

「ああ。今日、実行に移すよ」

「変わった言い方だな」男が可笑しそうに笑う。

「……緊張してるんだ。初めてのことだから」

「そうなのか? まあ、頑張れよ」


 男は緊張をほぐす為に少年の肩を軽い力で何度も叩いてやった。少し度が過ぎたのか、少年は嫌そうな顔をしながら舌打ちした後、男の脇腹を小突いた。


「痛い痛い」

「うっとおしい!」

「元気付けてやろうと思ったんだよぉ」


 情けない声を上げながら、おどける男。その態度に苛ついたのか、少年は眉間にシワを寄せながら怒鳴った。


「もう、行くからな! 明日の朝、またここにいろよ」

「はいはい」


 少年は肩を怒らせながら、その場を立ち去った。




 翌日の朝、男がベンチに座っていると、あの少年がやってきた。息を荒げ、目を見開き、とても興奮している様子だった。


「話はついたみたいだな」

「あ、ああ。もう未練はないぜ! さっさと行くぞ!」少年がやけに大きな声を上げながら、男を急かす。


「そんなに楽しみなのか?」

「い、いや。あー、違う! そ、そうだ。すごく楽しみなんだ!」

「お前……。なんかおかしいぞ」

「悪い。ちょっと……色々あって、……頭が、混乱してるんだ」少年は額に手を当てながら、たどたどしく話す。


「本当に大丈夫なのか? 手術して間もないんだ。何かあっても医者でも何でもない俺には、どうすることもできんぞ」

「手術は確実に成功してる。たらふく食べたけど、全く問題無かったぜ。……大丈夫だから、さっさと行こうぜ!」


 少年から、何か異様な気配を感じ取った男は、少年の顔色をじっと伺った。少年はニヤリと笑った後、すぐに元の調子を取り戻し、いつもの悪態をついた。


「ジロジロ見るなよ。気持ち悪いぜ」

「うーん。……まあ、大丈夫か」


 少年がいつもどおりの口の悪さを取り戻したことで、男の疑心は薄らぎ、これ以上の詮索はしないことにした。そして、少年の言う通り、すぐに異界の扉に向かった。




 ここで少年を問い詰めなかったことが、男の人生において最大の失敗となってしまうことに、この時の彼は思いもしなかった。


 この男は決して鈍感な人間だったわけではない。誰も、この少年の内部に凶悪な邪心が存在していることに、気付くことなどできないだろう。


 決して男に責任がある訳ではない。だが、彼が少年を異界に解き放った事で、多くの血が流れる事になったのは、確かだった。




「そういえばお前、名前はなんて言うんだ?」異界の扉へ向かっている途中、不意に男が少年に尋ねた。

「シェエンバレン」少年は静かに答えた。


 少年と男が異界の扉の前に立つ。男はゆっくりと扉を開けると、少年に扉を通る様に促した。少年はその指示に従い、躊躇うこと無く扉を通り抜けた。


 恐るべき悪鬼が一人、異界渡りになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る