この思いを
確実に仕留めた筈だった。これで勝てる筈だった。
怪物には知性が残っていたのか。それとも限り無く生まれる食欲という本能がそうさせたのか。カルウィルフの放ったナイフは、シェエンバレンの喉奥から大量に溢れ出した触手によって遮られた。
「なんだと……」
「喰える喰える喰える! これで喰える! お前を喰えるぞ!」
シェエンバレンの歪んだ笑声が響き渡り、左右の顎を閉じる力が強まる。同時に喉から新たに湧いた触手がカルウィルフの首を締め上げていく。
「ぐっ……、がはっ……」
気道が塞がり、呼吸ができなくなる。力を振り絞り、まだ操ることができる刃をシェエンバレンの頭部に差し向けた。しかし、既に再生を終えた両腕が壁となり、必死の思いで放った刃すら弾かれてしまう。
カルウィルフに残された力では、この怪物の暴食から逃れる術は無かった。少しずつ、少しずつ、左右の顎が閉じていく。刃の鎧も、この凶悪な歯牙の群れに囲まれた状態では、その力を発揮することはできなかった。
この戦いに勝てぬ事を理解しながらも、抵抗を続けるカルウィルフ。その視線は忌まわしき異界喰らいへと注がれる。改めて見る怪物の姿は、いつの間にか最初の変貌からさらなる成長を遂げていた。
体格はより強靭に変化しており、元から巨大だった右腕は更に巨大に。左腕は蜘蛛の巣のように広がり、水路の壁や天井を覆い尽くしていた。足元は触手に覆われており、凄まじい速さで地面を侵略している。そして、この怪物を支配している食欲の象徴である口が、肩や背中から新しく生まれ始めていた。
カルウィルフにはこれが一人の人間から生まれた物なのだと、元の異界喰らいの姿を見ていながらも、信じることはできなかった。
背後からネイリットの悲鳴が聞こえてくる。
彼女だけでも救いたい。姉達がここに来るまで時間を稼ぐのだ。まだ自分にも何かできるはずだ。
ブーツに隠していたナイフの事を思い出す。カルウィルフはすかさず、踵を強く踏み込み、ブーツのつま先からナイフの刃を突き出した。そして、ナイフを操作し、首を締め付けている触手を切り落とした。
(これで、呼吸はできる!)
だが、シェエンバレンはすぐにカルウィルフの行動に反応し、その自由を奪うために、彼の両足に向けて、槍の穂先のように尖ったいくつもの左腕を突き刺した。カルウィルフの足は地面に磔にされ、彼が動かすことのできる四肢は無くなった。
(くそっ! 何か無いか! 二人が来るまでの時間を稼げればいいんだ!)
カルウィルフの身体を万力のようにゆっくりと噛み潰そうとする顎。その破壊的な圧力を拒んでいた両腕が軋み始める。もう、限界だった。
「いただきますいただきますいただきますいただきます」
シェエンバレンの異形の口が、食前の挨拶の言葉を何度も単調に吐き続ける。肩や背中から新しく生えてきた口は、狂ったように甲高い奇声を上げていた。無数の口から発せられる狂気に満ちた合唱は、これから大好物である異界渡りの肉を喰らえることへの歓喜を唄っているかのようだった。
閉じゆく両顎を今まで支えていた、カルウィルフの片腕が折れる。この時、彼は完全なる敗北を確信した。
(ここまでか……。ネイリット、すまない。せめて、君だけでも……)
カルウィルフの身体が、異界喰らいに喰われかけた、その時。
「カルウィルフ!」
己の名前を呼ぶ声がした。生まれた時から聞いてきた、馴染みのある声が。
直後、突如として現れた小さな煌めきの塊がシェエンバレンの頭部を包みこみ、カルウィルフの身体を挟んでいた顎を切り落とした。
「伏せろ、カル!」
続けて、黒い炎が切れ落ちた両顎を焼き尽くし、そこから燃え広がった炎がシェエンバレンの全身を焼き払った。
「……姉さん、リシュ。間に合ったのか……」
カルウィルフは安堵し、その場に崩れ落ちる。突然の攻撃に驚いたのか、シェエンバレンは奇声を発しながら、水路の奥へと逃げていった。
「なんなんだ、あれは?」
リシュリオルが逃げ去っていく奇怪な怪物を見つめながら、呟いた。
「シェエンバレンが、何らかの力であの化け物になったんだ」ネイリットがボロボロの身体を起こしながら答える。
「異界渡りの力で、あんな物に変わったの?」
アトリラーシャも、リシュリオルと同じように大きく目を見開きながら、およそ人であったとは思えぬ、おぞましい怪物の姿に驚愕していた。
「そうだ、姉さん。……奴と戦っていて分かったことがある。その『力』のことだ。俺は奴の口の中にナイフを放り込んで内側から攻撃しようとした。だが、何度も意図的な妨害を受けて、防がれてしまった……。これは俺の仮説だが、奴は体内の人工的な臓器……多分『胃』から力を引き出している」
「胃? それで、どうしてあんな姿に……」
「それは分からない。だが、あの怪物の姿はかなりの体力を消耗するはずだ。奴自身、それらしいことを言っていた。……姉さん、リシュ。ネイリットのことは俺に任せて奴を追ってくれ。奴を仕留めるには力を大きく消耗している今しかないんだ」
カルウィルフは手に持っていた刀を鞘に収め、アトリラーシャの前に突き出した。
「これを……。叔父さんが使っていた刀だ」アトリラーシャは三日月の紋章が飾られた鞘をしばらく見つめた後、こくりと頷いた。
「……うん。あとは私達に任せて」
アトリラーシャがカルウィルフの手から刀を受け取った直後、地上へ戻る階段の方向から、足音が聞こえてきた。それは、一人ではなく、複数人による物だった。
「異界喰らいの仲間か……」
そう呟きながら、リシュリオルが階段を見据えていると、アトリラーシャの手のひらが彼女の肩に置かれた。思わず、リシュリオルはアトリラーシャの方へ振り向いた。
「リシュ、異界喰らいは私が討つ。いや、私が討たないといけない。だから……」彼女が言いたいことはすぐに理解できた。
「……分かった。異界喰らいはアトリに任せる。他の奴等は私がやる」リシュリオルは頷きながら、微笑んでみせた。
「ありがとう、リシュ」
アトリラーシャもこれから始まる戦いのことなど何処かに忘れているかのような、優しい微笑みを見せてくれた。そして、すぐに柔らかな表情を消し去り、薄暗い水路の先を見据えた。
アトリラーシャ。彼女ならきっと勝てる……。きっと……。
(本当に? 勝てるのか? 彼女は生きて帰ってきてくれるのか?)
リシュリオルの胸が騒ぐ。恐るべき未来を想像し、これがアトリラーシャと会える最後の機会になるのではないかと不吉な予想を思い浮かべた。そして、最悪の結末を迎える前に、この地下に入る時に伝えようとしたことを、封じていた思いを、吐き出してしまおうと考える。
「アトリラーシャ!」
既に歩みを進めていたアトリラーシャの背中に向けて、リシュリオルは叫んだ。彼女はぴたりと足を止めて、振り返る。初めて出会った時から、美しいと思い続けてきた銀髪がなびく。
(私は……、私は君のことが…………)
言いたい。この気持ちを伝えたい。だけど……。
「どうか……。どうか、無事で……!」
アトリラーシャはニッコリと笑うと、水路の奥の暗闇へと消えていった。リシュリオルは彼女へ思いを伝えることができなかった後悔の念を心中に泳がせながら、イルシュエッタから受け取っていた『呼び鈴』を使った。
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