最後の戦いの始まり

 ネイリットの身体は、本来なら激痛によって身動きもできぬ状態の筈だった。だが、彼女はまだ動かすことのできる四肢を必死に操って、地面を這いずり、間近に見えている階段へ進もうとしていた。


「俺は切ったり刺したりするより、折る方が好みなんだ。血を流されると、肉の鮮度が落ちるからな。だが、獲物の骨を上手く折るには技術がいる。結構難しいんだぜ」


 シェエンバレンが這いずって逃げようとするネイリットを見下ろしながら、淡々と話している。口を動かしながら、これ以上逃げられぬように、彼女の折れた足を踏み潰し、地面に押さえつけた。


 ネイリットの苦痛に悶える声が地下水路に響く。


「それにしてもだ。お前、どうして俺のことが分かったんだ?」

「……誰が言うか! この畜生以下のクソ外道!」

「おうおうおうおう、いい返事だ。そんなお前に、ご褒美をくれてやる」


 そう言うと、シェエンバレンはネイリットの折れた右足を踏んだまま、今度は残った片足で、彼女の折れていない左足に向かって、全体重を掛けて踏みにじった。ばきばきと骨の砕ける音が身体の内側を通って聞こえてくる。


「かはっ……」


 壮絶な苦痛が全身を駆け巡っていたが、喉は枯れ果て、うめき声すら出なかった。片腕だけでは這いずることもできず、肺の奥からひゅうひゅうと、かすれた情けない呼吸音を漏らす事しかできなかった。


「どうだい? 話す気になったか?」


 シェエンバレンはネイリットの両足の上で屈むと、頬まで裂けた口元を歪めながら、嗜虐的な笑みを向けてきた。

 

「……殺すなら、さっさと殺せよ!」

「おいおい、勘違いするなよ。俺が喰ってるものが、何なのかは勿論知ってるんだろ?」

「知ってるさ! ……くたばれ、人喰い野郎!」

「ちゃんと俺の事を勉強してるじゃないかぁ。なら、お前をすぐに殺す理由が無いことも分かるだろ? 生きたままでしか喰えない大事な食材をそう簡単に殺すわけが無い。俺の仲間が作った薬を使って、じっくり、ゆっくり、解体するように調理するんだ。まずは足、次は腕だ。綺麗に肉をこそぎ落として磨いた骨を、お前の怯えた顔の前に並べてやるよ」


 この男は本当に狂っている。絶対にこの世に放っておく訳にはいかない。だが、今の自分に置かれた状況では、この男の悪行を止めることはできない。


 どうすれば止められたのか。もっと後先を考えれば良かったのだ。慎重に動くべきだったのだ。己の直情に任せて、迂闊な行動を取りすぎた。ルギオディオンに言われた事を少しも守れていない自分の愚かさに嫌気が差した。


(どうしてこんな……)


 悔しさと情けなさで、また涙が流れた。せっかく仇敵の正体を掴めたというのに、こんな所で終わるのか。先程の闘争の炎も消えてしまい、今のネイリットの心には凄まじい勢いで沸き起こる後悔の念が虚しく漂っているだけだった。


 シェエンバレンはそんなネイリットの心境などつゆ知らず、新しい食材が手に入った為か、楽しそうに鼻歌を歌っていた。そして、彼女の足を引っ張りながら、調理場であるあの広場へと戻り始めた。


「自分自身の解体ショーを見れるなんて、お前は最高に運がいいぜ! 普通はあり得ないことなんだからなぁ。せいぜい楽しめよなぁ!」


 下卑た高笑いが地下水路に響き渡る。もう何もかもが終わりだと思った。生き延びる希望も活力も、下衆以下の猟奇者の笑い声によって消されてしまった。これから自分の身に起こるであろう残虐な仕打ちを想像し、肉体より先に精神が死にかけていた。


 絶望に打ちひしがれたネイリットの懐から、何かが転がり落ち、からからと軽い音を立てる。シェエンバレンの視線はその音の方へ向く。


「おい、それは何だ?」


 シェエンバレンが転がり落ちた物を指差し、尋ねる。ネイリットは何も答えなかった。答える気力が無かった。そんな彼女の態度に苛立ち、シェエンバレンは舌打ちをしながら、落ちた物を拾いにいった。


 それは通信端末だった。ネイリットがカルウィルフにこの地下水路の事をメッセージで伝えた物だった。シェエンバレンはすぐに端末の送受信の履歴を調べ、ネイリットが地下へ向かう階段の場所を他の仲間と共有していたことに気付く。


「既にこの場所の事を誰かに伝えてやがったのか」


 シェエンバレンがそのことに気付いたその直後、彼の腕が切り離され、手に持っていた端末ごと地面に落ちた。


「なんだ?」


 突然の出来事に驚き、シェエンバレンはネイリットから離れ、素早く後退した。地上を繋ぐ階段近くの薄闇に目を凝らすと、一つの人影が見えた。


「大丈夫か! ネイリット!」


 銀色の髪と瞳の青年。見覚えのある姿だった。彼が唯一取りこぼした獲物の一人だ。ネイリットの瞳が希望の色に変わる。


「カルウィルフ!」


 ネイリットがその青年の名を呼んだ瞬間、突如としてシェエンバレンの肩と脚が切り刻まれた。赤黒い血液が水路の壁に飛び散る。しかし、すぐに驚異的な再生能力がその傷を塞いでいく。


「これで会うのは何度目だ、異界喰らい? だが、この戦いでお前と会うことはもうなくなる」

「ははははっ! そうだなぁ。お前は俺の腹の中に消えてなくなるからなぁ」


 互いに引くことはできない。カルウィルフと異界喰らいの最後の戦いが始まった。

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