追う者と追われる者

 照明に気を取られていたため、一瞬気が付かなかったが、その広場にはおぞましい光景が広がっていた。液体の滴る音。むせ返るような血の匂い。人の唸り声。飛び交う小虫の羽音。何かの血肉。腐敗臭。何かの骨。

 

 思わず悲鳴を上げそうになったが、広場の中心に人影が見えたため、必死に両手で口を抑えて声を殺した。


 広場の中心にはシェエンバレンが立っていた。その足元には血塗れになった男が倒れている。シェエンバレンは男に向かって何か話し掛けていたが、距離が離れているため、ネイリットにその内容は聞こえなかった。だが。


「……いただきます」


 その言葉だけは、はっきりと聞こえた。そして、たちまちにシェエンバレンの身体は、骨が軋むような、肉が裂けるような、形容し難い奇妙な音を立てながら、その形を変えた。


 漆黒の体毛が全身を覆い、頬まで裂けた口元には鋭い牙が光っていた。かろうじて、骨格だけは人の形を残していたが、その姿は誰が見たとしても、人とは思えぬ異形だった。


(異界喰らい……!)


 ネイリットは息を殺しながら、シェエンバレンの変貌を見つめていたが、今まで多くの人を殺してきた異界喰らいの牙が、足元に倒れている男の脚に触れかかると、居ても立ってもいられなくなった。気付けば、身体が勝手に動いていた。


 護身用に常に持ち歩いていた拳銃をシェエンバレンに向けて撃ち放つ。火薬の弾ける音が地下空間にこだました。弾丸はシェエンバレンの肉を貫いたが、その傷穴もすぐに塞がり、消えてしまった。

 

 シェエンバレンの視線が足元の男からネイリットへと動く。赤く輝く瞳がネイリットの恐怖を煽った。


「さっきの記者か。お前、たしかあの時、料理を食っていなかったよな。どうりで匂いがしないわけだ」


 殺人現場を見られているというのに、余裕の態度を見せるシェエンバレン。


 どうやらあの料理は獲物に特別な匂い付けをするために食わせるものらしい。だから、ネイリットは気付かれずにこの地下の広場で行われている残虐な食事の惨状を知ることができたのだ。しかし、それを知った人間を異界喰らいがどうするかなど決まっている。


 異界喰らいシェエンバレンが、ネイリットの立っている方へ、そのおぞましい身体を向ける。逃げなければ死ぬ。生にすがりつこうとする本能が、恐怖ですくんでいたネイリットの身体を動かした。


 ネイリットは拳銃に入っていた弾丸を全て撃ち出した後、今まで歩いていきた地下水路へ戻ろうとした。期待などしていなかったが、弾丸はシェエンバレンを一瞬だけ硬直させるだけの効果しか無かった。


 ネイリットがブーツの力を発動しながら、広場を去ろうとシェエンバレンに背を向けた時、彼女の右肩に何かが突き刺さった。激痛に倒れそうになるが、なんとか体勢を保ち、肩に刺さったものを確認する。


 それは、長く伸びた爪だった。一瞬だけ振り返り、シェエンバレンの方を見ると、奴は自身の伸びた爪をへし折り、こちらに向かって投げようとしていた。


 二本目の爪が飛んでくる。ネイリットは痛みに耐えながら、ブーツの力を全力で使い、間一髪の所でそれを躱した。そして、そのまま地上へ戻るために水路を走り始めた。


 獣のような咆哮が背後から聞こえてくる。万全の状態なら、例えあの異界喰らいであろうと、既に逃げ切る事ができていただろう。


(だが、今は違う)


 ネイリットは自身の右肩に触れた。そこにはおぞましい悪魔の様な形をした異界喰らいの爪が突き刺さっている。この爪が刺さったままの状態では、上手く身体を動かすことが出来ず、体力の消耗が激しかった。


 しかし、この爪を抜き取ってしまえば、大量の血液が傷口から漏れ出ることになる。それは、更に自身を窮地に追い詰める選択だった。


 ネイリットは痛みに耐えながら必死に走った。彼女の靴音が荒々しくこだまする。地上への階段は、ここに入った時よりも長く遠く感じた。どこまで走っても代わり映えしないレンガの壁が無限に続いているような気がした。


 シェエンバレンの気配が暗闇の向こうから近付いてくるのを感じる。ネイリットの体力も既に限界に近く、階段のある壁まで辿り着けたとしても、そのまま逃げ切ることは不可能であった。しかし、逃げ切れないと分かっていても、彼女は走り続けた。


(最低最悪の異界喰らいのクソ野郎に、潔く喰われるなど、まっぴら御免だ!)


 憤怒と憎悪が今の彼女の原動力の源だった。爆発する感情で、傷の痛みも死の恐怖も弾き飛ばし、前へと進む推進力に変えた。弱りきった体力を、無理やり気力で補った。


 その甲斐あってか、彼女は地上への階段の目前まで遂に辿り着くことができたが、既にシェエンバレンの魔の手は彼女の身に触れかかっていた。


 シェエンバレンの右手がネイリットの左腕を掴む。肩に突き刺さった物と同じ、長く鋭い爪が前腕に突き刺さり、ネイリットは小さな悲鳴を上げた。


 咄嗟に身体を捻り、ブーツの力を使った右脚による回し蹴りをシェエンバレンの腹に向けて放ったが、残っていた左手で簡単に受け止められてしまった。


 シェエンバレンはネイリットの蹴りを受け止めた左手を素早く回し、その勢いで彼女の足首を捻じ曲げた。ごきり、と鈍い音が足先から伝わってくる。


 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。自身の身に怒った事態を理解するまでの、その一瞬の時間の後、生まれて初めて感じる強烈な痛みが彼女を襲った。


「うあああああぁぁぁっ!」


 両目から久方ぶりの涙が零れる。同時に自身の鼓膜も破れるような激しい絶叫を、喉の奥から轟かせた。その悲鳴はきっと、目前にある狭い階段を昇って地上まで届いただろう。


 ネイリットがどんなに泣き叫んでも、シェエンバレンの攻撃は止まらない。あらぬ方向に曲がったネイリットの右足から左手を離すと、彼女の身体は体勢を大きく崩し、ふわりと後方に倒れかけた。


 シェエンバレンは素早く掴んでいた彼女の左腕を引き寄せ、その関節を挟み込むように、余った片肘を振り下ろし、膝を突き上げた。二つの強烈な打撃の衝突はネイリットの左腕の関節を粉々に砕き散らした。

 

 ネイリットの右足と左腕を不能にした所で、シェエンバレンは彼女の腕をさっと手離した。支えを失ったネイリットの身体は地下水路の湿った地面の上に放り出され、彼女は受け身を取ることもできずに、勢いよく倒れ込んだ。


 地面に倒れた衝撃で、いつも被っていたお気に入りのキャスケットが何処かに飛んでいくのが見えた。

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