積もる疑惑

 彼女に、蘇った記憶を正直に話すべきかラドヒリクは迷っていた。真実を話せば彼女は傷つき、自分の事を憎むだろう。それは彼が今、最も恐れていることであり、実際に行動に移すことはできなかった。だが、彼女との生活に幸福を感じている自分のことも許せなかった。彼女の兄を死に追いやった自分がのうのうと生きていることを強く恥じた。


 彼女と一緒にいるべきでは無い。このまま二人で生きていくことになったとしても、彼女はきっと幸せにはなれない。ラドヒリクはそう考えた。


 彼は翌日から、彼女の元を離れる準備を始めた。街の周囲の地理や気候を調べ、住処が見つかるまで野営をする為の道具を集めた。ひっそりと彼女に見つからぬように。そして、出発の準備を終えたラドヒリクが、彼女の家を発つ事を伝えようとしていた日にそれは起きた。


 ラドヒリクが彼女に頼まれた買い物から帰ってきた時、普段開けることの少ない書斎の窓が開いていることに気付いた。その時は部屋の空気を入れ替えているのかと、特に気にも留めずに家の中に入った。


「ただいま」


 ラドヒリクの声が家の中に響く。返事は返ってこなかった。ゆっくりと部屋の中を見て回る。木の床を踏む音がいつもより大きく聞こえた。


 恐ろしい程、静かだった。


 窓が開いていた書斎の扉の前に立つ。ゆっくりと扉を開くと、絨毯の上に赤い血を流す彼女の身体がうつ伏せに倒れているのを見つけた。ラドヒリクは慌てて彼女の元に駆けつけ、彼女の身体を揺すったが、彼女は起き上がることはなかった。それでも、何も返ってこないことが分かっていても、ラドヒリクは何度も彼女の名を呼んだ。


 彼女の閉じた目は開かなかった。もう二度と、優しく微笑みかけてくれることも、その細指に触れられることもないだろう。


 彼女を殺したのは、あの殺人鬼だった。偶然、街に訪れていた異界渡り達が殺人鬼を捕まえた際、この街で犯した罪を全て白状したそうだ。街の警察組織は殺人鬼の吐いた情報を洗いざらいに調べ上げ、この悪魔に関わってしまった被害者達の名前を発表した。その中には彼女の名前も入っていた。


 ラドヒリクは一言礼を告げる為、殺人鬼を捕らえた異界渡りに会おうと考えていた。彼らは海辺の小さなホテルに泊まっていると警察から聞いていたので、ラドヒリクはそこに向かった。


 ホテルに向かう途中、海を見晴らすことができる展望公園に異国の佇まいをした男達が、海を眺めがら話していた。ラドヒリクはもしやと思い、彼らに話しかけると、男達はやけに驚いた様子でラドヒリクの顔を見つめた。


 どうしたのかと、驚いた理由を尋ねると、男の一人が異界の扉の鍵がいきなりやってきたと、笑いながら答えた。その時のラドヒリクには彼らの話は何一つ理解できなかったが、取り敢えず彼らが異界渡りであることは間違いないと思い、殺人鬼を捕まえたことに対して礼を言った。


 異界渡りの男達はラドヒリクの感謝の言葉に何も答えることはなく、困惑した様子で彼の顔を伺っていた。その理由が分からずに、立ち尽くしていると、自分の両目から涙が零れ落ちていることに気付いた。ラドヒリクは慌ててその涙を拭き取り、目の前の男達に謝った。


 男の一人が真剣な眼差しをラドヒリクに向けて、何があったのかを尋ねた。ラドヒリクは最初は躊躇っていたが、心が軽くなると思い、懺悔するように彼らに自分の素性を話した。


 ラドヒリクの話を聞き終え、男達は言った。


「俺達は皆、過去の不幸にずっと苦しんできた。だが、今はもうそれを克服して、異界を旅しながら、料理店を営んでるんだ。よかったら、あんたも俺達と一緒に旅をしてみないか?」


 ラドヒリクは流れる涙を拭いながら、彼らの手をとった。




 ラドヒリクの話が終わった瞬間、バーの店長が「そろそろお時間です」と、ネイリット達の座っていたテーブル席に伝えに来た。いつの間にか、客は自分達だけしかおらず、そろそろ日が昇り始める時分になっていた。


「俺の話はできそうにないな」


 シェエンバレンが残念そうに言った。そんな彼にネイリットが尋ねる。


「まだこの世界にいるんですか?」

「いや、そろそろこの世界からは発とうと思ってる。いつも使ってる香辛料がこの世界には無いんでね。また調達しないといけないんだ」


 ネイリットは焦り始めた。彼らを今この世界から、逃がすことはできない。


 ジェタリオの義眼、フニカラシの傷跡、ラドヒリクが語った殺人鬼の話を聞いて、ネイリットの胸の内には彼らに対する疑惑の念が凄まじい勢いで溢れ出していた。全ての事実を確認するまでは、ここにいてもらわないといけない。だが、ネイリットにはすぐに彼らを引き止めておける言葉が見つからなかった。彼女の疑惑が真実なら、下手な事を言ってしまえば、彼らはすぐにでもこの世界を離れようとするだろう。


 ネイリットの焦燥を無視して、ケイツェンもシェエンバレン達も退店の準備を始めている。


「またどこかで出会えたら、あなたの話も聞かせてください」

「いいぜ、減るもんじゃないしな」


 ケイツェンとシェエンバレンが握手を交わす。今のネイリットにはシェエンバレンの骨ばった手が血に染まっているように見え、気分が悪くなった。


「こんな遅くまでお付き合いして頂き、ありがとうございました」

「いいって、いいって。久しぶりに自分の話ができたから、こいつらも喜んでるよ」


 シェエンバレン達が店を立ち去っていく。ネイリットもその後を追うように店を出た。外は霧が立ち込めており、昇り始めた太陽の光を遮っていた。薄暗く見通しが悪い状況だったが、店を離れていくシェエンバレン達の姿は、はっきりと確認することができた。


 慌ただしく店を出たネイリットを追って、ケイツェンが店を出てくる。


「どうした?」

「ちょっと彼らに確認したいことがあって……。すぐに済むと思うので、ケイさんは戻ってください」

「……ああ。分かった」


 ケイツェンは慌ててシェエンバレン達を追い掛けるネイリットの姿を不思議そうに見送った。


 ネイリットは真実を知るために少しでも情報を集めようと、シェエンバレン達に気付かれぬように、その跡を追うことにした。そして、カルウィルフ達と常に情報を共有できるように持っていた携帯式の通信端末を使い、シェエンバレン達の追跡を始めることについて、メッセージを送っておいた。

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