記憶の断片

 ラドヒリク。彼は、彼の言葉通り、その人生のほとんどの記憶を失っており、覚えていることは少なかった。


 ラドヒリクに残された記憶の最初の出来事は、透き通るような水色の海辺で始まる。彼はその海辺で気を失ったまま、寄せては返す波に打たれていた。そして、人の声と水の跳ねる音で、彼は目覚める。


 ぼやけた視界が次第に晴れていき、目の前に一人の女性が立っていることにラドヒリクは気付く。彼女は海辺の近くに住んでいるらしく、偶然海辺を散歩していたら、ラドヒリクを見つけたという。


 弱り切ったラドヒリクの目に映る彼女の姿はとても美しく、透き通るような白い肌は、青い空に映えて、まるで雲のようだった。そして、何故かは分からないが、失われてしまった記憶が、彼女の事を知っているような気がした。


 彼女は記憶喪失のラドヒリクを自分の家まで運び、衰弱した彼を介抱してくれた。そして、記憶が戻るまで、この家にいてもいいと彼女は言った。こうしてラドヒリクはしばらくの間、彼女と共に生活を送ることになった。


 ラドヒリクは彼女と過ごしていくうち、その美しさと優しさにどこまでも心惹かれた。記憶が戻っても、このままこの街で彼女と共に暮らしてもいいかもしれない。そんな事をラドヒリクは考え始めていた。


 彼女と出会ってから一月の時間が経った。ラドヒリクの体力は回復していたが、彼の失われた記憶は少しも蘇ることは無かった。だが、彼はそのことを全く気にしていなかった。彼女との生活があまりに幸福で自分が記憶喪失であることも忘れかけていた。


 ある晩、ラドヒリクが眠れずに夜風に当たろうと家の外に出た時、彼女が一人で泣いているのを見つけた。彼は咄嗟に何があったのか聞いた。すると、泣きながら彼女は話した。


 彼女の兄は刑務官で、離島にある刑務所へと囚人を護送する任に当たっていた。しかし、とある囚人を護送している時、護送船のエンジンが爆発を起こし、沈没する事故があった。彼女の兄もそれに巻き込まれ、先日、その遺体が見つかったという。


 彼女の話を聞いているうちに、ラドヒリクの忘れ去られた記憶の断片が脳裏をよぎった。初めて失った記憶が蘇る感覚にラドヒリクは驚愕した。ラドヒリクは彼女の兄の顔を見れないかと、呼吸を荒げながら尋ねると、彼女は一枚の写真を取り出した。


 彼女の兄の写真を見た瞬間、ラドヒリクは彼女の話に出てきた囚人の護送船に乗っていたことを思い出した。それ以前の古い記憶は濃い霧に覆われたままだったが、彼が思い出した護送船での出来事は彼を絶望させるには充分な内容だった。




 護送船の事故は決して偶発的に起きたものでは無かった。護送船にはある凶悪な男囚が乗っており、彼は世間を恐怖の渦に巻き込んだ連続殺人鬼であった。そして、ラドヒリクはその男の護送を担当する警官だった。危険すぎる殺人鬼を見張るため、この男一人に対して、ラドヒリクが付き添うことになったのだ。


 護送船が出港してから数時間が経過した頃、船はこれから向かう離島の刑務所まで残り半分ほどの距離にあった。ラドヒリクが檻の中にいる殺人鬼の男を見張っていると、男は突然、気分が悪いと言ってうずくまり、うるさく喚き始めた。殺人鬼の肥え太った身体が震えている。ラドヒリクは醜いものを見るような目で殺人鬼を見下し、彼の訴えを無視し続けた。


 だが、殺人鬼があまりにも騒がしく喚き立てるために、ラドヒリクは仕方なく彼を医務室に連れて行くことにした。男には厳重な拘束具が取り付けられ、手足を自由に動かせなくなっていた為、その程度のことなら大した問題は無いとラドヒリクは判断した。


 ラドヒリクが檻の扉を開けた瞬間、殺人鬼は彼の身体にもたれかかった。ラドヒリクはすぐにベルトに掛けられたホルスターから銃を抜き取ろうとしたが、拘束されている筈の殺人鬼の腕が伸び、ラドヒリクを殴り倒した。


 ラドヒリクはそのまま意識を失ってしまい、この後、護送船で起こった出来事をその目で見てはいない。だが、ラドヒリクが目を覚ました時、自分の安直な行動が最悪の結果を引き起こしたということを、彼はすぐに理解できた。


 身体を起こそうとするラドヒリクの傍らには刑務官の死体が倒れており、彼らの身体には銃弾が突き抜けた跡があった。その銃創はラドヒリクのもっていた拳銃による物と同じだった。


 倒れている刑務官から銃を拾おうとした時、懐から一枚の写真がはみ出ているのを見つけた。写真に写っていたのは『彼女』であり、目の前に倒れていたのは彼女の兄だった。彼女の兄を殺したのは殺人鬼かも知れないが、そのきっかけを作ったのは自分なのだとラドヒリクは思った。


 一人の刑務官を死に追いやった罪悪感、気を抜いた自分への怒り。激しい後悔を抱えたながら、ラドヒリクは殺人鬼を探す為に甲板へと走った。彼が甲板へ上がる道程には、刑務官と他の囚人の死体がそこら中に置かれていた。


 階段を使って甲板まで上がり切ると、そこには半裸の男が立っていた。ラドヒリクはその男に向かって、銃を構えながら、ジリジリと詰め寄っていく。相手もラドヒリクの存在に気付いたのか、彼が少しずつ近付いてくる姿をじっと見つめていた。


 その男は適度な筋肉を纏ったしなやかな身体をしていた。しかし、この男の顔をラドヒリクは知らなかった。銃を持つ手に力が入る。ラドヒリクが男の顔を不思議そうに伺っていると、男は笑いながら言った。


「ありがとう、警官さん。あなたのおかげで逃げられたよ。そして、次の獲物も見つかった」


 男の言葉を聞いた直後、ラドヒリクはすぐに引き金を引いた。弾丸は男の額にぶつかったが、血の一滴も流れることは無かった。男はラドヒリクに素早く迫り、彼の身体を蹴り飛ばす。ラドヒリクの身体は大きく吹き飛び、先程上ってきた階段へ転がり落ちた。


 全身に走る痛みに耐えながら、ラドヒリクは男から距離を取るために、必死に階段を下った。しかし、海に浮かぶ船の中に逃げる場所は無く、彼はすぐに船の機械室へと追い詰められてしまう。


 ラドヒリクは迫りくる男の全身に弾丸を撃ち込んだが、その全てがことごとく弾かれ、何処かに飛んで行った。男は弾丸を撃ち切り、抵抗できなくなったラドヒリクの首を締め始める。


 ラドヒリクは死を確信したが、運命は彼を救った。遠のく意識の中、機械室に異音と異臭を感じ取るラドヒリク。彼の首を絞める男もそれに気付いていたようだった。男はラドヒリクにとどめを刺すのを止め、機械室から慌てて立ち去ろうとしたが、男が扉に手を掛けた瞬間、爆音と共に沸き起こった炎が男の身体を吹き飛ばした。ラドヒリクは床に伏せていた為、炎の餌食にならずに済んだ。


 何が起こったのかを確認する為、機械室を見渡すと、いくつかの設備から可燃性のオイルが漏れ出していた。さっき弾かれた弾丸が当たったのだろうか。それらの設備には小さな穴が空いていた。爆発によってばら撒かれた炎が、凄まじい勢いで船体を焼いていく。


 ラドヒリクは火の手が回る前に、決死の覚悟で海に飛び込んだ。この時、彼の記憶は大きく歪んでしまい、悪夢のような護送船の出来事だけが記憶の片隅に残ってしまった。

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