戦場の傷跡

 フニカラシは軍医だった。彼が仕事を勤める場所は言うまでもなく戦場であり、その中でも特に危険と隣り合わせになる最前線に近い野戦病院に彼はいた。そこでは日夜、傷を負った兵士達が運ばれてくる為、フニカラシは息をつく間もなくその治療に励んでいた。


 だが、彼の献身がその意味を成すことは多くはなかった。沢山の兵士達が苦痛に悶え、息絶えていった。それでも、彼は兵士達の命を少しでも救う為に働き続けた。彼の白衣は常に血に濡れ、乾くことはなかった。


 戦争は延々と長引き、数え切れないほどの死体の山が積み上げられた。フニカラシの肉体と精神は疲弊し、頭の中は空っぽだった。兵士が一人死んだとしても、悲しんだり、悔やんだりすることはなかった。一連の作業のようにその遺体を安置所へと、捨てるように置いていく。今思えば地獄のような状況だったが、その時の彼にとっては、淡々とした日常の一景であった。


 ある日、いつものように一人の兵士が野戦病院に運ばれてきた。フニカラシはその兵士に長時間に及ぶ手術を施し、その命を救った。術後、兵士は目を覚ますと、フニカラシに向かって「ありがとう、ありがとう」と感謝の言葉を何度も何度も、泣きながら呟いた。この時、フニカラシの中で枯れていた心が僅かだが蘇った。自分にはまだ救わなければならない命があるのだと、自分の戦いは終わっていないのだと、彼は思った。


 しかし、その思いもすぐに消え失せた。


 フニカラシのいた世界では、戦争の手段や方法を規制する為の法律が存在しており、医療施設への攻撃は非人道的だとして禁止されていた。だが、敵勢力の兵士がその禁則を破り、フニカラシのいる野戦病院を襲撃したのだ。

 

 野戦病院には、多くの兵士や医療に関わる者がいた。だが、その全てが死んだ。そこで救われた者も全て。フニカラシ、彼一人を除いて。彼は全身に無数の弾丸を受けたが、奇跡的に生き延びた。


 戦争はフニカラシの国の敗北に終わった。野戦病院への襲撃という事実も、敵国の勝利という大きな光によって、暗闇の中に消えた。フニカラシもまた、その暗闇の中に消えかけていた。


 フニカラシは終戦後、自分の国に帰り、心や身体に傷を負った帰還兵を療養する医療施設にいた。戦場で負った傷によって、動かすことが難しかった身体も、この施設で治療することができた。だが、野戦病院での襲撃で受けた弾丸の傷はいつまでも痛み、戦場での惨劇の記憶が脳裏に焼き付き、消えることはなかった。


 帰還兵の医療施設を退院すると、フニカラシは軍医の経験を活かし、地元の病院に勤めることにした。戦地で助けられなかった命の代わりに地元の人々を救おうと考えていた。しかし、患者達の苦痛の声を聴く度、戦場での記憶が蘇り、立っていられない程に酷い頭痛に襲われた為、もう医師として働くことはできないことを悟り、彼はすぐに病院を辞めた。

 

 フニカラシの心の命は風前の灯火だった。戦場で浴びた血と硝煙の匂いを、違法な薬物を使って忘れようとした。一度試すだけ、そのつもりだった。薬は一時的に彼を過去の呪縛から解放してくれたが、その効果が切れると、反動として生々しい過去の幻覚を見ることとなった。住み慣れているはずの我が家が血に塗れた野戦病院に変わった。


 今度は幻覚から逃れる為、新しい薬を求めた。自宅を離れ、薬を買った場所まで向かおうとした。そう思い、家の外を出たが、動くもの全てが敵の兵士に見えてしまう。彼らは皆こちらに銃口を向けていた。フニカラシは恐怖でその場にうずくまった。


 地べたの上で丸くなり、怯え震えるフニカラシの背中に誰かの手が触れた。反射的に彼は振り返り、その手の正体を見る。一人の男が心配そうに声を掛けている。その奥に別の男の姿が見える。


 実際は、ただならぬ様子で怯えるフニカラシのことを心配していただけかもしれないが、薬物の副作用で狂乱している彼には、親切な二人の男の姿も銃を持った敵兵にしか見えなかった。フニカラシは雄叫びを上げながら、そばにいる男に殴りかかった。男は、突然放たれたフニカラシの拳を軽く受け止めた。そして、彼の腕を掴み、地面に投げ伏せた。


 フニカラシの視界は反転し、地面に叩きつけられた。その衝撃が彼の意識を吹き飛ばした。


 フニカラシが意識を取り戻した時、幻覚は消え去っていた。そして、地面に倒れた彼の傍らには、先程の二人の男が立っており、フニカラシの身に何があったのかを尋ねた。精神が疲弊しきっていた彼は、違法薬物に手を染めたことも隠さずに、彼らに全てを打ち明けた。


 二人の男はフニカラシの話を聞き終えると、彼をそっちのけにして、話し合いを始めた。しばらくすると、男達はフニカラシに向かって言った。


「俺達は異界渡りだ、どうやらあんたは俺達の次の扉を開くための鍵らしい。そして、あんたの元軍医としての力を貸してくれないか? 俺がやりたいことに医者が必要なんだ」


 男の提案をフニカラシは拒否した。


「私はもう医者として働くことはできない。他を当たってくれ」


 フニカラシの答えを聞いた男は、彼の弱気な態度に辟易しているようだった。だが、男は急に表情を強張らせ、フニカラシの肩を掴みながら、強い口調で説得するように言った。


「あんたはこのまま、訳の分からない薬とイカれた幻覚を交互に楽しむ生活を送るつもりか? 異界渡りになれば、この世界を離れて、新しい人生を始められるかも知れない、そのチャンスを失うつもりか? 何もしないでじっとしていれば、過去に打ち勝てるわけじゃないだろ」


 フニカラシは男の芯のある言葉に心を動かされた。彼の元でなら、自分を変えられるかも知れないと考えた。


「……そうだな。……久しぶりに戦ってみるか。敵は……自分自身だな」


 こうして、フニカラシは異界渡りとなり、シェエンバレンと共に行動するようになった。




 フニカラシの話が終わった。ケイツェンは続けざまに語られる悲惨な話を聞いて、絶句していた。だが、ネイリットの中の違和感は、フニカラシの話を聞いて一つの疑惑に変わっていた。それを確かめる為に、彼女は彼に話しかけた。


「その傷は弾丸によるものだったんですね」

「ああ、そうだ。未だに、この弾丸は取り除けないでいる」

「……そうですか」


 ネイリットの頭の中で恐るべき想像が膨らんでいく。


「どうした、ネイリット? 顔が真っ青だぞ?」


 隣りにいるケイツェンが心配そうにネイリットの顔色を伺ってくる。


「大丈夫です。ちょっと疲れてるだけです。すみません、話を続けて下さい」

「なら、次は僕から話そう」


 語り始めた三人目の男は、ラドヒリクという青年だった。ラドヒリクは彼らが営む料理店のメインチーフで、常に厨房の中にいるため、ネイリットは彼の素顔をこのバーに来て初めて知った。ダークブラウンの短髪に髪色と同じような色の瞳をしていた。はっきり言うと、あまり特徴のない平凡で地味な顔立ちだった。


「話すといっても、僕は人生の半分くらいの記憶を失っていてね。話すことは少ないかも」


 記憶が失っていると聞いて、ケイツェンは緊張した面持ちで身構えた。きっと先の二人が語った話と同じような凄惨な内容であると思ったのだろう。ネイリットも同じように肩を強張らせて彼の話を聞いた。その緊張の理由はケイツェンとは異なるものだったが。

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