怨敵の影
一行は橋の向こうへと消えていくネイリットとケイツェンをしばらく眺めていた。二人の姿が人混みに紛れてしまうと、ルギオディオンはため息を吐きながら、カルウィルフに向かいあった。
「ネイリットには危なっかしい所がある。お前がしっかり見張っていろよ」
「どうして俺に?」
「……違うのか?」
「何がですか?」
「……うーむ、違ったようだな」
「だから、何が!」
カルウィルフの質問に答えることなく、ルギオディオンは彼の背後に立つリーリエルデとイルシュエッタを一瞥した。
「さて、そろそろ行くとするか。リーリエルデ、イルシュエッタ」
「え?」
リシュリオルは驚いた顔で、ルギオディオンとその後ろに立つ二人を見つめた。その視線に気付いたイルシュエッタがリシュリオルのそばに歩み寄り、リーリエルデもその後を追うように動き出す。
「ごめんね、リシュ。一緒には行けないんだ」
「どうしても、終わらせなければならない仕事があるんです。あなた達のそばにいられないのは残念ですが……」
「……分かった。今までありがとう」
リシュリオルは寂しさを紛らわせる為に、できるだけ全身の力を抜いて、無表情を作り上げる。しかし、彼女の強がりはイルシュエッタの前では大した意味を成さなかった。
「そんなに我慢しなくてもいいんだよぉ。私と離れるのが嫌なら、泣き喚いてすがり付くといい。そうしたら、社長も考え直してくれるかも」
「誰が泣くか! さっさと、どこにでも行けよ!」
「ははは、大丈夫そうだね。でも、やっぱり心配だからこれを渡しておくね」
イルシュエッタはジャケットのポケットから、手のひらほどの大きさの筒を取り出した。筒は半分に色分けされており、両端には互いに逆の方向を差した矢印が描かれていた。
「それは?」
「私達は『呼び鈴』って呼んでる。これを使えば、別の異界にいる人間を呼び出せる。本当に危ないと思った時に使うんだよ。私がリシュの元に駆けつけるから」
「……分かった」
「『呼び鈴』には注意点があるんだ。これを使っても、すぐにそっちに行くことはできない。だから、使うタイミングは考えてね。使い方は……」
「矢印の通りに回せばいいんだろ?」
「そう! 犬でも分かる仕組みです!」
「……」
リシュリオルはイルシュエッタの右手から『呼び鈴』を奪い取り、懐にしまい込んだ。別れの寂しさは、目の前で唖然としている彼女が消し去ってくれた。
「では、行くぞ」
ルギオディオンが大量の荷物を全身に纏わせながら、市街地に向かい、橋の上を進んでいく。フラフラと左右に揺れながら歩く彼を見て、アトリラーシャが呆れた顔で呟いた。
「リーリエルデさんの力を使えばいいのに……」
「私のケースの中には入れたくないらしいです。得体が知れないとか言っていました。……酷いですよね?」
彼女の持つアタッシュケースは、多種多様な物体を出し入れすることができる。大きなテーブルや新鮮な魚まで、あらゆる物があのケースの腹の中に納められているのだ。ケースの中身がどうなっているのかは、当の本人であるリーリエルデにも分かっていないらしい。
ルギオディオンの言う通り、そんな混沌とした世界の中に大切な私物を入れるのは少々抵抗がある。リシュリオルはルギオディオンの気持ちに共感を覚えた。
「さあ、行きましょう先輩。新しい異界への旅とつまらない仕事が待ってますよ」
「そうですね。……では皆さん、どうかお元気で」
リーリエルデが丁寧にお辞儀をした。そんな彼女の一礼に対してリシュリオル達が応える。
「うん」
「はい!」
「そちらもお元気で」
三人の返事を聞き終えると、イルシュエッタとリーリエルデはルギオディオンを追い、橋の向こうの人混みの中に消えていった。
門の下を通り抜ける冷たい風がリシュリオル達の喪失感を加速させた。これからは彼ら無しで戦わなければならない。この別れはリシュリオル達にとって拭えぬ寂しさをもたらすと同時に、心強い味方がいなくなることを意味していた。
ネイリットはとある報道機関に勤めている。その報道機関は、異界を巡る出来事について取材などを行い、様々な手段で他の異界渡りにその情報を送り届けることを生業としている。異界渡りの存在が浸透している世界では、大々的にラジオやテレビなどで報道を行うこともあるらしい。
彼らは取材や記事を書く為の拠点として事務所を置いており、それはあらゆる異界の至るところに存在する。この本の街も例に漏れず、事務所が置かれており、ケイツェンに捕まったネイリットもそこに向かっていた。
「ケイさん、そろそろ何があったか教えてもらえませんか? 私の別れの挨拶よりも大切なことなんですよね?」
「異界喰らいだ。奴の痕跡がこの街で見つかった」
その名を聞いた途端、ネイリットの緩んでいた表情が引き締まった。
「どこでですか! 教えて下さい!」
「落ち着くんだ、ネイリット。今、事務所に向かっているのはそれを聞くためだ」
ケイツェンは声を荒げるネイリットの両肩を掴み、彼女の威勢を抑え込んだ。しかし、ネイリットの激しい感情は留まることを知らなかった。彼女はケイツェンの腕を抜け出し、事務所に向かって走り出した。ケイツェンはため息を漏らしながら、疾走するネイリットを追いかけた。
ケイツェンが事務所の扉に触れようとした時、扉の先から怒声が聞こえてきた。ネイリットの声だった。
「リーダー! どうして私を異界喰らいの取材班に入れてくれないんですか!」
ネイリットはある一人の男に向かって、襲いかかるような勢いで抗議の声を上げていた。ネイリットの怒声を浴びせられている彼はこの事務所において、取材の進行や記事作成の段取りなど、多くの決定権を持っており、皆から『リーダー』と呼ばれていた。
「危険だからだ。今のお前はどんなことをするか分からん」
「それってどういう意味ですか?」
「いくら異界喰らいとの間に因縁があるとしても、最近のお前の執着は異常だ。四六時中、仕事も手伝わずに異界喰らいの事件の資料を眺めている。そんな奴が一欠でも奴の正体を掴んでみろ。真っ先にそいつに襲いかかるだろうさ」
「私はそんなことしません! だから……」
「駄目だ! 他の仕事でもして、少し頭を冷やせ!」
リーダーはデスクの上に数枚の紙を叩きつけた。ネイリットはデスクの上にばら撒かれた紙の一枚一枚に目を通していく。それは取材の企画書だった。無論、異界喰らいに関わる内容が書かれているわけではない。そのことにネイリットは憤慨した。
「なんですか、これ? 異界喰らいがすぐそばにいるかもしれないのに、料理人と仲良くお話してこいって言うんですか?」
「お前はそんなに惨殺死体の記事を書きたいのか? たまには普通の記事を書いてみろ! それが書けなきゃ、お前はクビだ!」
ネイリットとリーダーの口論が白熱していく。この争いをこれ以上激化させることを避ける為、ケイツェンは二人の間に立った。
「ネイリット、ここは引き下がった方がいい。取材の方は私も手伝うから」
「どいてよ、ケイさん!」
ネイリットは目の前に立ちはだかるケイツェンを片手で振り払おうとしたが、彼女の腕は、ケイツェンに力強く握り締められ、その動きを止めた。
「頼むよ、ネイリット」
「ぐっ……。わかり……ました」
ケイツェンの研ぎ澄まされた眼光と凄まじい握力がネイリットの威勢を完全にへし折った。ケイツェンはネイリットの腕からゆっくりと手を離すと、リーダーに向かって頭を下げた。
「リーダー、すみませんでした。また私の方でしっかりと教育しておきます」
「……ああ」
ケイツェンは、眉間にしわを寄せるネイリットの腕を無理矢理引っ張り、事務所をあとにした。
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