追いかけっこ
リシュリオルとアトリラーシャが巨大書庫にいる時、カルウィルフは一人、街中を彷徨っていた。特に用事がある訳ではなかった。診療所の外に出れば、伯父を失った喪失感や虚無感から逃れられると思ったのだ。
だが、彼の心の傷が癒えることは無かった。むしろ、幸せそうにに過ごすこの街の住人達を見て、更に心が辛く苦しくなるだけだった。
陰鬱な心持ちのまま診療所の近くにある公園をだらだらと歩き続けていると、大きな池を跨ぐ橋に差し掛かった。橋の上から池を覗き込むと、自分の顔が茶色く濁った水面に映り込む。
くまだらけのやつれた顔。
この世界に来てから、カルウィルフは異界喰らいと戦った日の事を毎晩夢に見ていた。弱りきった心が、悲劇を悪夢として呼び起こさせたのだ。
異界喰らいに襲われ、自分の身体が動かなくなり、最後には地面から身体を起こすことができぬまま、炎の中に消えていく伯父の背中を見続ける。伯父の姿が炎によって完全に見えなくなると、激しい動悸と共に目が覚める。夢から覚めた後はいつも全身が汗にまみれており、強い疲労感に苛まされた。
伯父の死から生まれた悪夢は、カルウィルフの心身を衰弱させ、その刃を錆びさせた。彼のかつての闘争心は萎え、異界喰らいともう一度戦う気力は既に消えかけていた。
「異界喰らい……。伯父さんがいなかったら、勝てるわけないじゃないか」
池に映る濁った自分に向かって、独り言を吐き捨てる。
「……そこの君、今何て言ったの?」
カルウィルフの背後から女性の声が聞こえた。振り返ると、橋のちょうど真ん中にキャスケットを被った自分と同い年位の女の子がこちらを見つめている。誰にも聞こえていないつもりで呟いた声が、偶然後ろを通りがかっていた彼女の耳に入ってしまったようだ。
「『異界喰らい』って言ったよね? 確かにそう言った!」
女の子が凄まじい剣幕で迫ってくるので、カルウィルフは橋の欄干に追い詰められ、池に落ちそうになった。
「言った! 言ったけど、少し落ち着いてくれ。落ちる!」
「ご、ごめんなさい」
女の子は慌てて後退り、カルウィルフと距離を取った。そして、丁寧に一礼して自己紹介を始めた。
「私はネイリット、ジャーナリストをやってるの。……見習いだけどね」
「俺は……カルウィルフ」
ジャーナリストと聞いて、カルウィルフは寒気がした。彼女はこれから、異界喰らいについての情報を引き出す為に、自分に質問攻めをしてくるのだろうと想像した。
「カル、さっきあなたが呟いてた異界喰らいの事、何か知っているなら教えて欲しいの」
カルウィルフが予想していた通りの質問が来た。だが、彼はこの問に答える気は無かった。もう異界喰らいに関わることにはうんざりしていた。
「……さあ、知らないよ」
冷たい言葉を言い捨てると、カルウィルフはネイリットに背を向けて、その場から立ち去ろうとした。しかし、彼女はカルウィルフから情報を引き出すことを諦める気はなかった。
「待ってよ、カル! 本当は何か知ってるんでしょ?」
「知らないって言ってるだろ、しつこいぞ!」
ネイリットに腕を掴まれかけ、カルウィルフは急いでその場から逃げ出した。だが、彼のこの行動がネイリットの懐疑心を加速させてしまう。
「逃げたな、やっぱり怪しい! 待て!」
カルウィルフは公園を離れ、人の多い市街地に向かって駆けていく。人混みに紛れて、ネイリットの追跡を撒くつもりだった。カルウィルフは走力と体力にはそれなりの自信があったので、簡単に逃げ切ることができると思っていた。実際、軽く走っただけだったが、ネイリットとの距離はかなり開いていたのだ。しかし、ネイリットの『力』はそんな彼の自信など簡単に打ち砕く代物だった。
池を背にして左右に別れた道をどちらに進もうかと考えていた時、背後からネイリットの声が聞こえた。カルウィルフは振り向いて、ぎょっとした。ネイリットが水面すれすれを、水中に沈むことなく高速で走っていたのだ。
「待てー!」
「ありえない……」
カルウィルフは一瞬だけ狼狽えたが、すぐに気を取り直して街の大通りにすぐに出られる右の道へと進んだ。カルウィルフが進んだ道の先には、古い図書館があり、そこの庭園を突っ切ることで、簡単に大通りに出られる。そんなことをドクターが話していたのを思い出したのだ。
背後から迫ってくるネイリットの声に怯えながら必死に走っていると、ドクターの話通りの古いレンガ造りの図書館が見えた。庭園に入るには、建物の外壁に空いたトンネルから出られるとドクターから聞いていた。しかし、それらしきトンネルは工事の為か、大きな重機で塞がれており、通り抜けることができなくなっていた。
「少しくらい、話を聞かせてよー!」
叫び声を上げるネイリットとの距離がどんどん縮まっていく。彼女の走力は尋常では無かった。カルウィルフは心の中で謝りながら、図書館の外壁に向かって数本のナイフを投げた。ナイフは外壁のレンガの隙間に刺さっていく。カルウィルフは突き刺さったナイフの柄を足場にして、図書館の外壁をよじ登り、屋根の上に出た。そして、外壁に刺さったナイフを自分の手のひらに引き寄せて回収する。
「これで、もう付いてこれまい」
あとはこのまま、診療所へ戻るだけだ。そんなことを考えながら、ゆっくり屋根の上を歩いていると、下から壁を蹴る足音が聞こえてきた。カルウィルフは先程まで、自分が地に脚を着けていた地面を恐る恐る覗き込む。すると、垂直の外壁を駆け登るネイリットがいた。自分と同じ高さまで登り詰めた彼女を見て、カルウィルフは吐きそうになった。万事休すというやつだった。
「ナイフをあんな風に使った時は少し驚いた。カルも異界渡りなんだね。でも、私のブーツなら、このくらいの壁なら簡単に越えられるよ。さあ、次はどうやって逃げる?」
余裕の笑みを浮かべながら、自身が履いているハイカットのブーツに触れるネイリットを見て、カルウィルフは彼女から逃げることを諦め、その場に座り込んだ。
「もう逃げないよ。君から逃げられないことはよく分かった」
「ありがとう。じゃあさっきのことを教えてもらえないかな? 異界喰らいの事を」
「その前に俺からも聞きたいことがある。……ネイリット、きみはどうしてここまでして異界喰らいの事を知りたがるんだ? ジャーナリストとして名を上げる為か?」
質問を聞いたネイリットは先程までの笑顔を解き、カルウィルフから視線を逸した。そして、暗く曇った表情で彼女はその理由を話し始めた。
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