甘い餌なんていらない
リシュリオルはイルシュエッタ達と別れ、あとから別の場所で落ち合うことにした。ドクターに頼まれた夕食の食材を持ち帰らなければならないし、銀色の姉弟の事も紹介したかったからだ。
だが、今更ながら落ち込みきった姉弟が快く自分に付いて来るはずがないと考え始めていた。何か二人の気持ちを変えられるようなきっかけが必要だった。悲しい事にそんなものがすぐに浮かんできはしないが。
悩みに悩んだ挙げ句、リシュリオルは帰り道の途中に建つ、とある店に寄ってから、診療所へ戻った。
診療所の扉を開けると、ドクターが人気の無い受付でコーヒーを啜っていた。この診療所は、こんな状態でやっていけるのかと思ったが、ドクターも国から支援を受けていることを思い出し、すぐにその考えは消え去った。
「簡単なお使いのつもりだったが、……やけに遅かったな」
「偶然、知り合いに出会ったので話し込んでしまいました」
「そうか……、食材はそのへんに置いといてくれ」
「はい」
リシュリオルはドクターが指差したテーブルの上に食材の入った紙袋を置いた。先程買ったものをこっそり抜き取って。そして、受付で暇そうにしているドクターに軽く一礼してから、自分達の部屋が並ぶ廊下へと向かう。
まずは、アトリラーシャだ。彼女の部屋の前に立ち、扉を叩こうとしたが、いまいち踏ん切りがつかず、リシュリオルはしばらく廊下を行ったり来たりしていた。初めになんと話しかければいいか、どうやって部屋から連れ出そうか、そんなことを考えながら。
だが、廊下をうろうろと歩くリシュリオルの足音が部屋の中にも聞こえていたのか、彼女の不意をつくようにアトリラーシャが声を掛けてきた。
「リシュ? それとも、ドクター? 何かあったの?」
「いや、ドクターじゃない。リシュリオルだ」
「じゃあリシュ、どうして廊下を歩き回ってるの?」
最悪な出だしだったが、もう後戻りはできない。無理矢理にでも彼女を部屋から出さねば。リシュリオルは固く決意する。
「そんなことはどうでもいいんだ。ただちょっとアトリに話があって……」
リシュリオルは最初にイルシュエッタとリーリエルデの事をあらかた話した。彼女達と初めて出会った時のこと、そして、二度目と三度目の再会をした時のこと。最後に異界喰らいを倒す方法を知るために、イルシュエッタ達の上司にこれから会いに行く事を話した。
「……アトリラーシャ、一緒に来て欲しいんだ。皆に君のことを紹介してあげたいし、異界喰らいをこの世に留めておくことは、やはりできない。それに、グレスデインさんの仇を……」
アトリラーシャに同行してもらう為に、リシュリオルは説得を続けた。次第に説得に使える話題が思いつかなくなり、口数が減っていく。リシュリオルの口がほとんど動かなくなった頃、不意に部屋の扉が勢いよく開かれ、微笑むアトリラーシャが現れた。突然の出来事にリシュリオルは驚きで身体を大きく震わせる。
「いいよ。一緒に行ってあげる。リシュの気持ちはよく分かったしね。……それは?」
アトリラーシャはリシュリオルの左手にぶら下がる箱を指差した。
「……ケーキ」
リシュリオルがぼそりと呟くと、アトリラーシャは大笑いした。
「ははははは! それで私を釣ろうとしたの?」
笑い続けるアトリラーシャの隣で、リシュリオルは顔を赤くしてうつむいていた。
「き、君を部屋から出す方法を考えたんだ。でも、何も思い浮かばなくて……」
リシュリオルの身体は縮こまり、声は小鳥のはばたきのように小さくなっていった。そんな彼女の両肩を、アトリラーシャがいきなり掴む。
「そんな物無くたって、リシュの頼みなら、私、何処にだって行くし、なんだってするよ」
アトリラーシャの力強い言葉と真剣な眼差しに、リシュリオルはどきりとした。両肩に触れている彼女の手のひらの温かさは、リシュリオルの身体を火照らせる。自分を見つめる彼女の目には言い知れぬ魔力のような力が宿っているような気がした。煌めく銀色の虹彩に囲まれた、深く暗い瞳孔に、今にも吸い込まれそうになった。
アトリラーシャに見惚れて固まっていると、彼女はぷっと吹き出し、リシュリオルも我に返る。
「あんまり本気にしないでね。リシュに頼まれても、流石に裸になんてならないよ」
「だ、誰がそんなこと頼むか!」
リシュリオルは両肩を掴むアトリラーシャの手を振り払い、赤らんだ顔を誤魔化すように、慌ててカルウィルフの部屋に向かった。その部屋の扉をノックしようと手を伸ばした時、アトリラーシャが言った。
「カルなら、外に出てるみたいよ」
「そうなのか? いつ、帰ってくるんだ?」
「日が沈む頃には、帰るって言ってたけど」
「それだと、時間に間に合わないな……。仕方ない、二人で行こう」
「はーい」
リシュリオルとアトリラーシャは、ドクターに夕食には戻ると伝えて、診療所を出た。ドクターは曖昧な返事をした後、相変わらず暇そうにコーヒーを啜っていた。
イルシュエッタ達と落ち合う場所は、この本に塗れた街の中でも、最も本の数が多いと言われる巨大書庫だった。巨大書庫は街の中心地に聳える城をそのまま流用した施設で、周囲を水路に囲まれているため、その水路に架かる長い長い一本の大橋を渡らなければ辿り着くことができない。その為、住んでいる地域によっては、水路を大きく迂回する必要があり、アプローチが非常に悪くなってしまう。
幸いなことに診療所からなら、巨大書庫に向かうのは至極簡単で、近所にある大通りをまっすぐ歩いていけば、水路に架かる大橋にそのまま繋がる。そして今、リシュリオルとアトリラーシャはその大通りをだらだらと駄弁りながら歩いていた。
「……そういえば、さっきは聞かなかったけど、カルは何処に行ったんだ?」
「さあ? ただ少し外を歩いてくるとしか言ってなかったけど」
「一番落ち込んでいたから。少し心配だな」
「大丈夫! あの子は凄く強い子だから。なんたって、私の弟だよ!」
胸を張って、自信満々の笑顔で言うアトリラーシャ。その姿を、リシュリオルは渋い顔で見つめる。
「……『アトリラーシャの弟』って聞くと、一気に不信感が増す気がする」
「リシュってば、ひどい……」
アトリラーシャが手のひらで顔を隠して、嘘くさい涙声を漏らす。そんな彼女を無視して、リシュリオルは巨大書庫へと向かう大橋へと足を進めた。
「待ってぇ!」
アトリラーシャは手のひらの下でしていた嘘泣きの準備をやめて、慌ててリシュリオルの後ろ姿を追いかけた。
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