獣現る

 工場の中は建屋を覆う木々の葉が外からの光を遮っているせいか、薄暗かった。かろうじて明かり無しでも行動することができたが、その暗さは探索の効率を下げていた。


 時間を掛けながら探索を進めていくうちに、人の気配を感じる痕跡が幾つも見つかった。折れ口の新しい小枝。何度も踏まれて萎びた草花。尖った瓦礫に引っ掛かった衣服の断片。それらの痕跡を追いながら、アトリラーシャ達は工場の中心部へと進んでいった。


 しばらく探索を続けていると、屋根が崩落し、木漏れ日が差し込んでいる場所を見つけた。周囲の草木は温かい日差しを求めて、その茎や枝を屋根に空いた穴の向こうにある空へと伸ばしている。工場内に生える植物たちの葉が、ゆらゆらと揺れる木漏れ日の光を反射し、きらめいていた。


「きれいだね」アトリラーシャが呟く。

「ああ」カルウィルフも彼女に同意する。


 暗がりの中、突如として現れたその光景はここが廃工場であるということを忘れるほど幻想的で、アトリラーシャとカルウィルフの緊張は和らいだ。


 しかし、そんな安らぎの時間もすぐに消え失せた。屋根に空いた穴から吹き込む風が、湿った森の空気と共に血の匂いを運んでいることに、二人は気付く。改めて、周辺の草木をよく見てみると、そこら中に乾いた血が付着していた。

 

「帽子の持ち主の血か?」

「絶対とは言えないけど、多分そうだね」


 二人が血の付いた葉を観察していると、まだ足を踏み入れていない工場の奥の方から強烈な殺気を感じ取った。二人は瞬時に武器を構え、臨戦態勢に入る。


 殺気の正体は暗闇の中から現れた。二人の元へゆっくりと近づきながら、両の目を鋭く、赤く、光らせていた。屋根から降り注ぐ光が次第にその姿を露わにしていく。


 そいつは、人では無かった。人の形をしていたが、獣のように体毛を全身に纏っていた。鋭い牙を備えた口は頬まで裂けており、獣と思えぬ下卑た笑みを浮かべている。人でもない、獣でも無い、言うならば『獣人』。


 そいつを見た二人はすぐに勘付いた。伯父から伝え聞いた通りの特徴と全く同じ姿形をしている。そう、そいつは……。


「『異界喰らい』」アトリラーシャは震える声で呟いた。


「よお、銀髪の少年少女。どうやら、俺の事を知ってるみたいだな」


 直後、カルウィルフが激昂の叫びと共に駆け出し、異界喰らいの脳天に向けて、刀を振り下ろした。アトリラーシャも彼の声に合わせて、無数のナイフを宙に放った。


 異界喰らいはにたにたと笑いながら、カルウィルフの渾身の斬撃を軽々と片手で受け止めた。アトリラーシャの無数のナイフの追撃も残った片手と靭やかな体躯を使い、全て躱し切った。


「まだだ!」


 カルウィルフが衣服の中に仕込んでいたナイフによってさらなる追撃を加える。アトリラーシャもそれに合わせて、躱されたナイフを操り直し、再び異界喰らいに向け、打ち出す。


「面倒だな……」


 そうぼやいた異界喰らいは、二人の追撃を躱すことはしなかった。無数のナイフが毛むくじゃらの巨体に突き刺さる。だが、異界喰らいはまるで痛みを感じていないかのように、身じろぎ一つしなかった。


 カルウィルフが異界喰らいの不可思議な行動に狼狽えていると、異界喰らいの素早い蹴撃が彼の胴体にめり込んだ。カルウィルフは後方へと吹き飛ばされ、背後にいたアトリラーシャを巻き込みながら、地面に倒れ伏す。


「挨拶もなしにこんなものぶつけてきやがって……」


 異界喰らいは平然とした様子で、身体に刺さったナイフを一本ずつ抜き始めた。ナイフが抜ける度に血が吹き出したが、一瞬の合間にその傷口も塞がった。


「どうなってる……」


 カルウィルフは見る見るうちに再生していく異界喰らいの身体を見て、唖然としていた。


「カル!」


 アトリラーシャが弟の名を呼ぶ。カルウィルフはアトリラーシャの意図を瞬間的に察知し、異界喰らいに向けて、ブーツに隠した数本のナイフを投げつけた。ナイフは異界喰らいの脚に突き刺さり、その動きを制限する。


 そして、カルウィルフが素早く後退すると同時にアトリラーシャの放ったナイフが異界喰らいを取り囲み始める。彼女のナイフには柄に小さな輪が取り付けられており、そこに細いワイヤーが通してあった。


 アトリラーシャの操作するナイフによって、ワイヤーは変幻自在に動き回り、異界喰らいの身体を縛り付けた。異界喰らいの身体が束縛された瞬間、その喉元にカルウィルフの刀が容赦無く突き刺さる。刀の切っ先は異界喰らいの喉を貫いた。


 確実な致命傷を受けた異界喰らいの眼は白目を向き、牙を備えた口からは、血が泡立つ音が聞こえた。痙攣する異界喰らいの身体は次第に動きを止め、ぐったりと項垂れながら、地面に膝をついていく。


 カルウィルフは自身の荒ぶる呼吸を落ち着かせながら、異界喰らいの身体に突き刺さった刀をゆっくりと引き抜いた。支えを失った異界喰らいの身体はそのまま地面に倒れていく。


 カルウィルフは異界喰らいが動かなくなったのを確認しながら、顔にかかった返り血を服の袖で拭った。勝利を確信し、姉の方へ振り返ると、彼女は安堵の笑みを見せていた。だが……。


「……何を勝った気でいやがる」


 その声は地面に倒れている異界喰らいの方から聞こえた。二人の勝利の喜びを嘲笑うかのような声色だった。


 姉弟は揃って、声のする方へと振り向いた。そこには喉を突き破られた筈の異界喰らいが立っていた。開かれた喉の傷口は既に閉じ、元の形へ戻っている。


「こいつ、不死身か!」カルウィルフが異界喰らいの再生力に驚愕の声を上げる。


 異界喰らいは動揺するカルウィルフに素早く近づき、彼が慌てて放った迎撃の刀の一振りを容易く躱した。カルウィルフが再び斬撃を繰り出そうとした時、異界喰らいは彼の左腕を掴み、枯れ枝のように軽々とへし折った。


 一瞬の出来事、流れるような動作だった。


 アトリラーシャが弟を助ける為に投げていたナイフが異界喰らいの半面を切り刻んだ。同時に折られた左腕に走る激痛によって、カルウィルフは苦痛の声を上げていた。カルウィルフの腕を犠牲にして、異界喰らいに与えた顔の傷もすぐに癒えてしまう。


「おいおい、これからが本番なんだぜ。初めからその調子で大丈夫かよ?」


 異界喰らいは痛みに悶えるカルウィルフを見下ろして、ゲラゲラと笑っていた。カルウィルフが嘲笑う異界喰らいの姿に憎悪の眼差しを向けていると、その背後から一人の男が現れる。その男の顔は半分以上が眼球にまみれたグロテスクな様相をしていた。


「おい、遊びは終わりだっ! こいつらの仲間が来るぞ!」眼球の男が異界喰らいに向かって怒鳴る。


「なんだよ、良いところだったのに」

「そんなこと言ってる場合かよ!」


 異界喰らいは眼球の男に向かってつまらなそうにため息を吐き、跪くカルウィルフに歩み寄った。


「カル、下がって!」


 アトリラーシャが叫ぶ。彼女の声が響き渡ると、無数のワイヤーとナイフが工場内を飛び交った。アトリラーシャは更にカルウィルフが落とした刀を異界喰らいに向けて投げつけた。カルウィルフの反応は早く、すぐにアトリラーシャの元へと後退することができた。そのまま二人はアトリラーシャが放った大量の刃を囮にして、異界喰らいから逃げ去った。




「はあ、逃げられたか。せっかくの異界渡りが……」異界喰らいは体中に刺さったナイフを抜き取りながら、嘆いた。


「くそっ、脚に! あのガキども! よくも俺の脚に!」眼球の男の脚には数本のナイフが突き刺さっていた。


「お前、なんでも見える目を持っている筈なのに、なんで避けられないんだ?」異界喰らいは小馬鹿にするように笑った。


「いきなりだったから、避けられるわけないだろ! 俺は未来が見えるわけじゃないんだ!」


「本当に……、いつも思うことだが……。お前の力は役に立つが、お前は役に立たないな」異界

喰らいは眼球の男に向かって、吐き捨てるように言った。その顔には一片の笑みすら無かった。


「黙れよ、猟奇殺人者が! さっさと追わないと、逃げられるぞ!」異界喰らいの罵倒に怒りを覚えたのか、眼球の男は甲高く吠える。


「はいはい。……だが、逃げられるのは面倒だな。三人で追うぞ」異界喰らいは工場の奥の暗闇に向かって言った。


「確かに面倒だ。私はただ実験がしたいだけなのに……」


 悲壮に満ちた声で話す男が物陰から現れる。彼の顔には無数の凹凸が激しく蠢いていた。

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