流血の気配
リシュリオルが街に戻る頃には、既に日は傾き始めていた。
ホテルへ向かう途中に、背後から声を掛けられた。
血の付いた帽子にまとわりつく悪い予感とグレスデイン達にそのことを早く伝えねばならないという焦燥感の板挟みで、リシュリオルは酷く苛立っており、『何だ!』と怒鳴り声を上げながら、声の主へと振り返った。
「おっと失礼。いや、久しぶりなもんでつい後ろから話し掛けてしまった」
「あなたは……」
リシュリオルに声を掛けたのは、食堂を営みながら異界を渡る男、シェエンバレンだった。相変わらず、爽やかな笑みを浮かべている。リシュリオルは無意識に手に持っていた血塗られた帽子を背中の後ろに隠した。
「お久しぶりです、シェエンさん。すみません。今、急ぎの用があるので……」
リシュリオルがそう言って、その場から立ち去ろうとした時、すかさずシェエンバレンが尋ねてきた。
「もしかして、前に一緒にいたお連れさんに用があるのかな?」
「え、ええ。そうなんです」
「お連れさんなら、今、ウチの料理を食べてるよ」
「本当ですか? 今はどこに?」
「あっちのベンチの方で」
シェエンバレンは街の公園の広場の方を指差した。そこには、以前ビル街の自然公園で見た異国風の屋台が置かれ、周囲の街灯と共に夜闇を照らしていた。屋台の近くには複数の木製のベンチが設置されている。
「ありがとうございます!」
リシュリオルはシェエンバレンに礼を言った後、直ぐ様彼の指し示した方へと走った。
公園の広場には多くの人が屋台の料理を目当てに右往左往していたが、銀色の姉弟の髪が暗闇の中で仄かに光を放っていた為、リシュリオルはすぐに仲間の座っているベンチを見つけ出すことができた。彼らは、シェエンバレンの店が提供したであろう真っ赤な料理を食べていた。リシュリオルは急いで彼らのもとに駆けつける。
「みんな!」リシュリオルは息が切れかかった咳混じりの声で叫んだ。
突然のリシュリオルの叫び声に三人は驚き、身体を揺らした。特にアトリラーシャはその反動でスプーンを地面に落としてしまった。
「なんなの、リシュ! スプーンが落ちちゃったじゃない……」アトリラーシャが怒りと悲しみの入り混じった表情で嘆いた。リシュリオルは申し訳なさそうに『ごめん』と一言告げる。だが、今は地面に落ちたスプーンのことなど、どうでもいい。
「どうしたんだ、リシュ? そんなに慌てて、何かあったのか?」リシュリオルの様子を案じて、カルウィルフが尋ねる。
「この帽子を見てくれ」リシュリオルは手に持っていた緑色の帽子をカルウィルフに渡した。
「……血か」
「この帽子には見覚えがあるんだ。ホテルで出会った植物学者の異界渡りの人が被っていた。きっと、その人に何かあったに違いない。早く探さないと」
リシュリオルは必死の形相で、ハルフロニアを探すよう訴えた。しかし、皆渋い表情をするだけで、彼女の意見に賛同しかねていた。
「リシュ、落ち着け。夜に森の中に入るのは危険すぎる」カルウィルフはリシュリオルの肩に手を置いて、彼女を諭した。
「だけど……」
「カルの言う通りだ、リシュ。明日、日の出と共にその帽子の持ち主を探そう」聞き分けのないリシュリオルをグレスデインが重ねて制止する。
「……分かりました」腑に落ちない様子で頷くリシュリオル。
リシュリオルは彼らの意見が理にかなっていることも、今ハルフロニアが生きている可能性が低いことも十分に理解していた。ただ、待つことしかできないでいる自分の無力さに腹が立っていた。
それから、気まずい沈黙が続いた。そんな空気を壊すように傍から様子を見ていたシェエンバレンが一枚の皿を持って、近付いてきた。
「何があったかは分からないけど、これでも食べなよ。ツケでいいから」
彼が手に持つ皿の中には、例の辛くて赤い料理が入っていた。強い香辛料の匂いが鼻孔をくすぐる。肉の果実を食べて以来、何も取り込んでこなかった為、リシュリオルの腹の虫が大きく鳴いた。
「腹減ってるんだろ? さあさあ、冷める前に食ったほうが美味いぞ」
シェエンバレンは遠慮するリシュリオルの手に無理やり皿を持たせて、屋台の方へ颯爽と去っていった。リシュリオルは手に持った皿の中身を二度見した。一瞬の少考の後、渡されてしまったものは仕方がないと、リシュリオルはするすると真っ赤な料理を胃の中に注ぎ込んだ。
「そうそう、食べれる時に食べないとね」
リシュリオルの堂々たる食いっぷりを見て、アトリラーシャも笑顔で残りの料理を食べ始めた。
翌日の早朝。一行は森に入る準備をしていた。既に太陽は地平から顔を表し、世界に明るさをもたらしていたが、街には霧が薄く立ち込めており、探索をするには少々不向きな気候だった。
一行は準備を終え、森に足を踏み入れた。森の中は驚くほど静かで、木々を揺らす風も無く、鳥や虫のさざめきも無い。その静けさは濃さを増した霧のためか、広大な森の中にぽつんと歩いているためか、微かな恐怖心を生んだ。
昨夜、無理やり探索をするべきでないと言ったカルウィルフの意見を受け入れて正解だった。月の光とランタンの明かりだけでは、この森の密度に立ち向かうには、あまりにも心許ない。
「まずは、帽子を見つけた場所に向かおうと思う。リシュ、覚えているか?」森に入ってすぐにグレスデインがリシュリオルに尋ねてきた。
「大丈夫です。あまり深いところには行ってませんから。特徴的な建物が幾つかあったので、それを参考にすればすぐに着くと思います」
「そうか。なら案内を頼む」
その後、リシュリオルが先行し、ハルフロニアの帽子を見つけた場所へと向かった。
「着きました」
リシュリオルは、昨日果実を食べていた倒木の辺りで足を止め、後方にいた三人の方へと振り向く。直後にグレスデインが懐から地図を取り出し、倒木の上に広げた。
「この霧の中、何の目印も無しに行動するのは危険だと思ってな、旧市街の地図を持ってきた。この地図を参考にして、探索を行おう」
一行は手早く探索を行う為に、二手に分かれる事にした。リシュリオルはグレスデインと大きな電波塔を目印に南へ。残りの銀色の姉弟は東の廃工場に向かうことになった。
「何かあったら、連絡しろ。そして、すぐにその場から逃げろ。何も無くても、一時間後には再びここに戻ってくるんだ」
グレスデインは姉弟に強く言い聞かせた。それに応えて、アトリラーシャが元気よく『分かりました!』と叫んだ。
しかし、グレスデインは彼女の顔をちらりと一瞥した後、カルウィルフに向かい、意味ありげに頷いた。カルウィルフも彼と同じように深く頷く。
「いつもこうだよ、この二人は!」アトリラーシャは愚痴を地面にばら撒きながら、歩き始めた。
「姉さん、そっちは『西』だ!」カルウィルフは急いで、アトリラーシャを追い掛けた。
「……頼んだぞ、カル」
グレスデインは霧の向こうに消えていく姉弟の後ろ姿を見ながら呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます